連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

(15)アジアタウン 国籍超えた共生の町に
  • 印刷

長田・御菅地区から
 「祖国は朝鮮。心の故郷は長田」と話す禹致永(ウ・チョン)さん(59)は、震災後、日本人の接し方が少し変わった、と考えていた。

 大阪で生まれ、三木市で育った。鄭栄子(チョン・ヨンジャ)さん(57)と結婚し、子どもの通学を考え、西神戸朝鮮初中級学校に近い長田区御蔵通に落ち着いた。もう二十五年になる。

 栄子さんは「三木にいるころは、朝鮮の魚や供えもちをよく長田まで買いにきた。ここでは、自転車ですぐ買いにいける」という。

 長田は、在日韓国・朝鮮人が多い。市の調べでは約八千六百人で、区民の七・三%を占める。そんな町でも、在日と分かると、あいさつをしなくなった人がいた。夫婦とも仕事の関係で家を開けることが多く、近所付き合いはあまりなかった。

 震災で自宅を焼失した禹さんは四月、あるだけの資金で、平屋建てを再建した。早々に家を構えたこともあって、近くの日本人の相談に乗り、再建を手伝った。親せきのような付き合いは、その後も続いている。

 「地震という共通の悲惨な体験をしてから、道ですれ違えば無事を喜び合い、話をするようになった。構えていた人が構えることをやめたように思う」と、禹さんは話す。

    ◆

 多くの在日が集まったことについて、息の長い支援を目指す「兵庫県定住外国人生活復興センター」所長の金宣吉(キム・ソンギル)さん(32)は「外国人が自由に職業を選択できなかった日本の排他性が、長田でケミカルシューズ関連などの仕事に就かざるを得なかった状況を生んだともいえる」と指摘する。

 ケミカル関連では、経営者にも、従業員にも在日の人が結構多い。ベトナム人も仕事を求めて長田にやってきた。同区のベトナム人は四百六十五人で、在日に次いで多い。

 震災後、区南部の南駒栄公園には、ベトナム人が集まった。震災の情報が伝わらず、二世の子どもたちが通訳を務めた。「言葉の壁を乗り越えよう」と、今ではボランティアが日本語を教えている。公園での共同生活は続いている。

    ◆

 御菅地区の西隣の神戸市長田区細田町で靴底製造業を営む南信吉(ナム・シンギル)さん(52)も、震災で日本人との関係は変わってきたと思っている。

 長田で生まれ育ち、「コリアタウン」をつくる構想を長く抱き続けてきた。震災後は「民族にとらわれていてはだめだ。つくるならアジアタウン」と、考え始めた。

 「多くの外国人が住んでいることをあらためて知った。しかし、日本人も韓国人もない。いるのは同じ地域住民だ。外国人のためにアジアタウンをつくるのでない。日本もアジアに含まれている。日本人が中心となり、一緒に国際的なものをつくりたい」

 被災者は、まだ住宅と生活の再建に追われている。「アジアタウンは、じっくり時間をかけ、理解を得ながら進めないと成功しない」と、南さんは話す。推進委員会などの組織をつくり、構想を具体化していきたいという。

 住まいや職探しなどで根深く残る偏見や差別。南さんが言う「理解の時間」は、震災が問いかけた共生の意味、問題を見つめる時間にもなる。

1995/11/1

 

天気(9月7日)

  • 33℃
  • ---℃
  • 20%

  • 37℃
  • ---℃
  • 40%

  • 35℃
  • ---℃
  • 20%

  • 35℃
  • ---℃
  • 30%

お知らせ