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(14)工場共同体 支え合う分業システム
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長田・御菅地区から
 零細の家内工業が集まる。互いに仕事を融通し合い、分業のシステムができている。いわば工場の共同体。それが、工場も長田を離れられない理由だった。

 神戸市長田区御蔵通一丁目で鉄工所を経営する中川進さん(67)は、「発電所や船舶の部品製造業」だ。

 家族と従業員一人の計四人。十坪余りの工場にあるのは旋盤三台だけ。部品の注文が設計書とともに回ってくると、旋盤で削る以外の工程は、よそに頼む。

 穴を開ける業者、ネジ切りする業者、平らに削る業者…。約二十軒のほとんどが、歩いて十分程度の御菅地区にある。

 「鉄工所といってもいろいろある。どの工場もなくては困る。共存共栄やね」と中川さん。孫請けの四人の工場がまた、その下請けを持っている。よその下請けにもなる。

 御菅地区を歩くと、住宅、商店に交じって鉄工所が目立つ。地区東部は、船舶関係の大きな工場があり、戦後、零細業者が集まった。最盛期の一九六〇年ごろ、五十以上を数え、今も三十五ほどがある。西部も機械、ケミカルなどが多い。

 震災は、支え合う工場のネットワークを直撃した。

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 同じ一丁目の四宮寿代さん(66)は、自宅兼工場が倒壊し、プレハブで再建していた。

 ネジなど部品の一部を削る「角取り」が仕事。費用はかかったが、「急ぐ時など、安心できる仲間に仕事を回す。ここにいればなんとか仕事はある」。

 神戸市長田区御蔵通三丁目の工場が焼けた旋盤加工の吉田正雄さん(69)は、神戸市西区の元請け会社の一画に間借りした。ひんぱんに車で長田との間を往復する。「道が込めば往復に二、三時間もかけて部品を運ばなあかん。無駄が多い。震災前は自転車で行けたのに」と、いらだった口ぶりだった。

 神戸市長田区菅原通四丁目の工場を焼失した西堀超也さん(50)は神戸市長田区駒ケ林の仮設工場に入れた点は、運が良かったといえるかもしれない。

 市が区内につくった鉄工関係の仮設工場は、十六だけ。残りは西神工業団地など遠隔地で、区内の競争率は十倍以上だった。

 「でも大変だ」と、西堀さんは話した。「リース機械が壊れ、二千万円近くの負債ができた。いまの機械のリースにも月三十万かかる。月に百万ぐらい上げないと苦しい」

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 御菅地区の各種団体連絡協議会が八九年、市と結んだ「まちづくり協定」は、震災で町が激変した今も生きている。

 工場の多かった御蔵通五、六丁目は、協定で「住宅と工場の調和したまち」と位置付けられ、今回、区画整理対象地域になった。

 二十六日夜、町づくり協議会役員会で、プランナーがまちづくりの例を示した。道路、住宅など各ゾーンに分け、「工場の集約も考えられる」と話した。

 被災を免れた工場もあり、焼失した住民との思いの落差は大きい。協議会会長の白崎弘二さん(65)は「住宅と工場を分けるか、混在させるか、関心は高い。ポイントの一つ」と、慎重に言葉を選んだ。

 多くの零細工場は再開にこぎつけた。が、景気は依然、低迷している。先行きもはっきりしない。「震災で、よそにとられた仕事を何とかしなければ」。コストの無理を承知で、工場主は受注に必死だった。

1995/10/30

 

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