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(10)地域のシンボル 地蔵に託す再建の思い
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長田・御菅地区から
 神戸市須磨区の須磨寺は、この二十日、「お大師さん」でにぎわった。

 参道沿いの土手に高さ二十センチほどの地蔵が何列も並んでいた。焼けて変色したり、体の一部が欠けたりした地蔵が、ところどころにある。参拝客は手を合わせ、さい銭箱の代わりに置かれた植木鉢に、そっと小銭を入れた。

 顔から下が真っ黒に焼けた一体は、神戸市長田区菅原通三丁目のプレハブに住む鹿田一美さん(63)が三月、寺に納めた。

 震災前、母親のみや子さん(80)は毎日、地蔵に水や花を供えた。自宅は全焼し、震災の翌十八日、みや子さんの救出作業中、がれきの下に埋もれていた地蔵が見つかった。みや子さんの遺体が発見されたのは、その一日後だった。

 「私は一人になった。近所の人もほとんど地域に帰ってきていない。参拝客でにぎわうお寺に置いていただいた方が、少しはいいのかと思った」。鹿田さんは寂しそうに話した。

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 長田は地蔵の多い町だった。御菅地区もそうだった。地元の市立御蔵小学校六年生は夏休み、地蔵の調査をした。昨年も同様に調べ、震災の前と後を比較することができた。

 御蔵通、菅原通一・四丁目にあった十二体のうち残ったのは五体だけ。菅原通一丁目は須磨寺に預けていた。戦災と、震災と、二回焼けた菅原通二丁目の「延命地蔵」は、一部を欠いた形で残っていた。

 八月末の地蔵盆。前掛けが新しい延命地蔵の周りを提灯(ちょうちん)が明るく照らした。紙袋を手に菓子をもらいに来る子どもは、例年の三分の一しかいなかった。その姿が消えた後、約五十人がシートを広げ、久々の宴を開いた。「火事さえなかったら」と、震災の話題になるが、再会できただけで満足する人も少なくなかった。「また来年の地蔵盆で」と約束して別れた。

 「この地蔵さんは人の身代わりになって焼かれ、砕かれたのではないか」。十月にまとめた記録冊子に、児童は感想を記した。

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 被災地で地蔵の調査をした大阪外大助教授(都市民俗学)の森栗茂一さんは「地蔵は路地なかのふるさと意識につながるものだ」と指摘する。

 大正から昭和初期にかけて長田などには工場労働者が集まり、多くの長屋が建設された。長屋ごとに置かれた地蔵は、故郷の農村から離れて暮らす人たちの心のよりどころともなった。戦後の住宅地に地蔵はほとんど見当たらない。

 「地蔵は、支え合って暮らす下町のシンボルだった。近代的なビルが建っても人の息遣いが消えては何にもならない」と森栗さんは言う。

 御蔵通五、六丁目町づくり協議会が九月に行った住民アンケートの中間集計で、復興で必要な施設として、防火水槽、公園、集会所などに続き、「地蔵」が一割余りあった。その数は街角広場、ゲートボール場より多かった。六丁目の地蔵は今、地元の菅原寺にある。

 地蔵盆に合わせ、焼け跡の土を使ったミニ地蔵を神戸市兵庫区の祥福寺に作ってもらった住民もいる。高さ十センチの「復興地蔵」は、寺に安置している。「街が復興し、人々が帰って来たら、中心施設に安置したい」。発起人の水嶋昌江さん(54)らの願いである。

1995/10/26

 

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