兵庫運河にほど近い、神戸市長田区東尻池町に、完成間もない五階建てのマンションがある。
震災の翌春、「被災アパートの家主と住人ら一つに」と紙面で紹介した所だ。その後、住民はどうしているのか。再び訪れた。
外観は近代的だが、中庭に古井戸と、お地蔵さんにつながる路地がある。玄関を昔ながらの引き戸にした家もある。随所に、下町長屋の雰囲気が漂う。
「ここに六十年住んでたんよ。戻れるなんて思ってもなかった」。借家だったその地に、西区の仮設から戻ってきた荒木一子さん(74)が話した。
震災で、同地区は四十三戸が焼けた。その中で、アパートの地主三人と、戸建て住宅の五人が一昨年、この共同住宅を再建した。
借家人らが元の家に戻れ、再建費や家賃などに補助が出る「特定目的借上公共賃貸住宅制度」(後に民間借り上げ賃貸住宅制度へ移行)を活用した。
だが、こうした例はまれ。多くの被災者は元の地に戻れないまま、どこかの復興公営住宅に移り住む。
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代表的な復興団地、HAT神戸灘の浜と脇の浜住宅。臨海部の神戸製鋼などの跡地十三ヘクタールに、三十三棟の高層住宅が並ぶ。十階から三十数階までもある県営、市営、公団住宅の群れ。ゆくゆくは約三千世帯が暮らす新しい街になる。
同じような復興住宅は、東は尼崎から西は明石市まで、南は淡路まで被災市町に建つ。全壊家屋十八万超という未曾有(みぞう)の災害を受けて住宅復興は三カ年計画で進められ、仮設からの転居が日を追って増えていく。公的住宅は三月末までに、全体計画の約八割に当たる約六万五千五百戸が完成。新築の公営住宅は、約二万三千五百戸に上る。
「とにかく早く、大量に」の非常事態だった。
例えば、神戸市。当時の住宅局幹部が話した。
公営住宅の計画戸数一万六千戸は、震災前十年間の建築戸数に匹敵し、普通五・十年かかる土地契約を一年半で済ませた。
全国の各都市からの応援延べ六十人を加えた約四百人が市域を走った。「市街地にまとまった用地もなかったが、空地を見つけると地主とすぐに交渉した。買収が決まると、夜は地元説明会。とにかく必死で、休みもなかった」
四年半という仮設生活からの解放と、自力復興が困難な低所得者層への低家賃住宅の供給。それを一挙に解決する方法だった。
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その大量の公的住宅供給を中心にした施策は、最善だったのか。
震災直後にできた神戸市復興計画審議会の委員で、京都大学工学部の高田光雄助教授は疑問を抱き、主張していた。
一定の所得者層を集めてコミュニティーを作る公的住宅供給がもはや限界に達した歴史の転換期に、震災は起きた。日本の住宅施策を変えるチャンスだったという。
「それがまた戦後と同じ大量建設に走った。数合わせではなく、長田の例のような居住環境も含めた再構築が重要だ」と指摘する。「これからは、復興でできた細かな施策を社会システムの変革につなげていくべき」と。
急激に増えた神戸市の公営住宅。全所帯に占める比率は一割を超え、政令指定都市でトップになった。
1999/6/27