ひっそりとし、雑草が人の背ほども伸びる。通いつめた神戸市西区の仮設住宅だが、撤去を前にずいぶん景色も変わった。自動販売機のガラスは割れ、人の息遣いはもう感じない。
四月。この仮設で五十七歳の独居男性が首をくくった。電気コードを巻き、死後十日ほどたっていた。一月後に芦屋市の復興住宅への入居が決まっていた。警察からの一報に「また、あそこで」と気がめいった。二年前、女性が灯油をかぶって焼身自殺した住宅だったからだ。
遺書はなかった。勤めていた会社が倒産し、就職に悩んでいると知人に漏らしていた。自治会の元役員は「駅で会ったときは元気だった。仕事を探しに行く、て言うてたのに」と唇をかんだ。男性は二百三十二人目の「孤独死」だった。
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仮設での死は絶えない。一九九五年三月。兵庫県尼崎市で六十三歳の男性が亡くなり、二日後に発見された。私たちはこの時初めて「孤独死」と報じた。仮設でだれにも看(み)取られず、死後何日も気づかれない。それを「孤独死」と表現した。
アルコール依存の中年男性、一人暮らしのお年寄り。亡くなったのは、そういう人たちだった。
「一人の方が気が楽でいいねん」「息子夫婦の世話になるのはいやや」。仮設でそんなお年寄りの声は何度も耳にした。
家族やボランティアがしばしば訪ねていたが、死を看取れないこともあった。「それも孤独死か」と問われたこともある。
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神戸市西区の神戸みどり病院院長、額田勲さん(59)が、孤独死の追跡調査をしていた。訪ねると、そのきっかけとなった、ある仮設住民の死を話してくれた。
四十八歳の男性。アルコールによる肝臓疾患で病院に運ばれてきた。皮膚は乾き、枯れ葉のようにぼろぼろ落ちる。かびだった。栄養失調特有の症状で手の施しようはなく、一週間で亡くなった。
なぜ、こんな悲痛な死を迎えなければならなかったのか。額田さんは、男性の過去を訪ね歩いた。かつて山陰地方から職を求めて神戸にたどり着き、港湾労働などに就いていた。
幸せとは言えそうもない人生の輪郭が浮かんだ。貧困、持病、離婚。母親は、震災で文化住宅の下敷きになって死んだ。酒の量は一気に増え、命を縮めた。社会から取り残された末の最期だった。
「孤独死は仮設で死んだ人だけではない。彼もその一人だ。彼を救う社会システムがなかった」
額田さんが悔やむ。
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神戸大医学部助教授の上野易弘さんも、孤独死の実態を調べていた。浮かび上がったのは、額田さんと同様、日本の豊かな時代を築いた労働者の姿だった。
震災前の神戸でも年に二百~三百人が、だれにも看取られずに亡くなっていた。だが、調べるにつけ「孤独死」が投げかける問題の深さを痛感した。
高齢社会と、繁栄の時代が過ぎた社会の断面が、五年目の仮設からのぞく。
貧困さと、仕事にも就けない男たちの虚脱感。長すぎた仮設暮らしが、それに重なって見える。
1999/6/18