敷き詰めたタイルを一枚一枚はがすような作業に見えた。重機が一棟一棟を解体する。隠れていた土が、四年ぶりに初夏の日差しを浴びた。
仮設の住宅群だった。箱型の棟が視野いっぱいに広がり、初めて目にした時は威圧感さえあった。
神戸市西区平野町の西神第七仮設住宅。被災地最大の百二十棟千六十戸を抱えた。さらに、隣接する敷地内に七十七棟の西神第一仮設住宅がある。フェンスに囲まれた大団地の中に、つえを突き、手押し車を押すお年寄りたちがいた。極端に高齢化した町だった。
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震災の年の八月。ここに仮設診療所が建った。プレハブの壁に緑色の大きな十字を書いていた。所長は、病院の勤務医だった伊佐秀夫さん(48)。「震災直後、私たち医師がなぜもっと助けにいけなかったのか」。後悔に似た思いで、開所した。
当初は、まるで野戦病院のようだったという。カルテに残るすさまじい記録を見れば、実態が分かる。
最初の一年間だけで九十九人を入院させた。月平均八・二人。うち九人が亡くなった。六百六十一世帯ある第一住宅の七割近い人たちが受診した。今年三月の閉鎖まで、延べ二万五千人が診察に訪れた。
「孤独死を防ぎたい」。待ち受けるだけではなく、自ら患者宅に出向いた。
伊佐さんは昨春、患者を追うようにして復興住宅のある西神南ニュータウンに、仮設と同じ名の「クリニック希望」を開業した。仮設がなくなれば、診療所も閉じるつもりだったが、仮設での体験が医療観を変えた。地域に密着した臨床医がいかに大切か、と。
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長い仮設生活が被災者の健康にどう影響したのか。神戸市長田区の神戸協同病院院長、上田耕蔵さん(48)は市内二カ所で調査した。震災前からの持病が半数以上を占めたが、避難所で八・四%、仮設で二七・一%が病気を発症させた。高齢者が多く、高血圧、糖尿、腰痛が目立った。
真冬。訪ねた仮設で「さあ入って。寒さが分かるから」と促されたことがある。すき間風が吹き抜けていた。布団を何枚重ねても温まらない。住民は何度も訴え、辛抱も限界にきているように見えた。
夏の日差し。薄い壁。狭さゆえの圧迫感。先行きへの不安感。高齢の身には、すべてがこたえた。
応急住宅だから、少々の我慢は強いられるのかもしれない。だが、その暮らしが三年、四年と続いた。どこかでまた都市災害が起きると、同じことが繰り返される、と心配になる。
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六月末の期限を前に、仮設から復興、恒久住宅への移動が進む。兵庫県保険医協会が尼崎市内の復興住宅三カ所で行った健康調査によると、ほとんどの人が体の不調を訴えていた。
仮設から解放されても、心身の痛みが癒(い)えない人は多い。
「仮設には弱者が多く、医師への依存が強い。診療所があるだけで安心感につながったはずだ」
上田さんが指摘した。
神戸市内だけで二百八十八棟あった仮設住宅。診療所は、わずか九カ所だけだった。