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1945年7月3日の空襲後に撮影された姫路市内。遠くに姫路城が見える(高橋秀吉コレクションより)
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1945年7月3日の空襲後に撮影された姫路市内。遠くに姫路城が見える(高橋秀吉コレクションより)

 市街地が焼け野原になった姫路大空襲(1945年)で、姫路城だけはほぼ無傷だった。「米軍は城を標的から外した」。そんな逸話が今も市民の間で語り継がれる。だが、城が残ったのは偶然だった-。あの大空襲から3日で72年。改めて歴史をひもといた。(木村信行)

 45年夏の終戦前、姫路市は2回、大規模な空襲を受けた。

 6月22日の攻撃目標は、播但線京口駅近くにあった川西航空機姫路製作所。日本軍の戦闘機、紫電と紫電改の製造拠点だった。56機のB29戦略爆撃機が1505発の爆弾を落とし、工場周辺の市民ら341人が犠牲になった(直後の市調査)。

 市の中心部を焼き尽くしたのは7月3日の空襲だ。

 第313航空団のB29106機が飛来。午後11時50分から約1時間半、9129発計767トンもの焼夷弾を投下した。死者は173人とされる(同)。

 米軍の「戦術作戦任務報告書」によると、2度の空襲で全市街地の76・7%が壊滅した。だが、見渡す限りの焼け野原に、城だけが「まるで奇跡のように」(空襲体験者)ぽつりと威容を誇っていた。

 「城の価値を認めた米軍が爆撃を回避した」。いつしか、そんな見方が市民に広がった。

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 戦後50年目の95年7月。この謎が解き明かされた。

 研究者と戦災者の求めに応じ、姫路大空襲に加わったB29の機長アーサー・トームズさん(当時74歳)が初めて姫路の地を訪れた。

 城を案内しながら、市戦災遺族会会長で高校の英語教諭だった黒田権大さん(88)=同市=は問うた。

 「なぜあのとき、城を爆撃しなかったのか」

 当時16歳だった黒田さんは7月3日の空襲で祖父母を失った。翌朝、焼けた自宅の先に見えた城の姿を鮮明に覚えていた。

 トームズさんは答えた。「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった」

 さらに、こう語ったという。「出撃の直前、攻撃目標マップを渡された。赤線で囲んだ目標の北限の上空に差し掛かったとき、レーダーが『水面』の存在を示した。当時のレーダーは水面と陸地の区別しかできず、『池か湖か、あるいは海か』と判断し、焼夷弾を落とさなかった。その赤線の上にあったのが城だった」

 「水面」は、城を取り囲む堀だった。

 トームズさんは、公開講演となった「姫路空襲50周年平和のつどい」でも同様の証言をした。

 城が空襲を免れたのは偶然だった-。謎は一応、決着した。だが、攻撃対象や攻撃による効果を詳細に分析していた米軍が、姫路のシンボルとも言える城の存在を把握していなかったのだろうか。黒田さんの心に疑問が残った。

 10年ほど前、知人を介してトームズさんに電話をする機会があった黒田さんは再び聞いた。「本当に偶然だったのか?」

 トームズさんはそのとき、こう答えたという。

 「今、改めて考えると、指令部は城の存在を知っていたかもしれない。その上で、攻撃意図があったか、なかったか、本当のことは私にも分からない」

 

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