遠方から、わざわざ行ってみたくなる場所や建築物を創出したい-。そんな思いで日々奔走している。連載では、具体的な事例を前・後半の2回に分け、背景や活動内容を紹介する。
建築学分野で「歴史まちづくり」をやっていると自己紹介すれば、だいたいの活動領域を思い浮かべてもらえるだろうか。具体的には、地域の歴史研究と、それを展開した現代のまちづくりや建築設計に取り組んでいる。
仕事が横断的なのは時代の要請だ。はやり廃りに振り回されず、できるだけ学術研究をベースに、場所や対象の特性を深掘りして街に展開していく必要を感じている。一方で、誰かに研究成果を展開してもらうのを待つだけでは、似たような風景が量産されていく。規模の経済による都心集中圧力に、地方がのみ込まれる様子を静観するしかないもどかしさも感じる。
作家が作品をつくるように、地域性を前面に出し、地域づくりに精を出す建築家が理想像だが、さてどこまでできるのか。いくつかの事例を紹介したい。
■天然良好
神戸市中央区、新幹線「新神戸駅」から北に歩いて約15分のところに、平安貴族も遊んだ布引の滝がある。一帯は1872(明治5)年、「布引遊園地」として整備された。54区画の土地が分譲されて茶屋等が建ち、物見遊山の行楽施設となった。
きっかけは、開港に伴って神戸に住むようになった外国人たちが、公園を作るよう求めたからだ。この布引遊園地や、居留地近くの東遊園地をめぐる内外の折衝は、翌73(同6)年に定められた公園に関する太政官布達に結実する。
ちなみに明治初期の都市関連制度は、まず神戸で実験的に施行されたものが多い。地租改正や地方自治、民間による都市開発につながる動きは、まず内外人が混在居住した神戸の雑居地で試され、兵庫県にも広げられた。
これらを主導したのは幕末の蘭学者で、自由主義経済学者でもあった神田孝平(たかひら)という兵庫県令(知事)だ。神田は外国人が求めていた公園を「公遊花園地」と訳している。形の模倣ではなくその概念まで深く理解していたようだ。日本人にとっての公園は、布引のような「天然良好」の場に求めるべきという内容の記述も残している。
■歴史的資源
当時の布引遊園地は神戸を代表する観光施設となっていた。イギリスのジョン・マレー社が84(明治17)年に出版した外国人向け観光ガイド『旅行者のための日本旅行案内』(B.H.チェンバレン著)が、神戸の頁で最初に取り上げたのは布引だった。
明治後期になると、川崎造船所(現川崎重工業)創業家の本宅や菩提(ぼだい)寺(現徳光院)、記念施設がつくられた。同施設跡には今も、創業者川崎正蔵の銅像を収めた天蓋(てんがい)が残る。国の重要文化財となっている上水施設(日本初の重力式コンクリートダムや水道橋など)の遺構もある。
布引は都心に近く、自然環境、歴史的資源にも恵まれた場所だが、現状では十分な顕彰や整備、活用が行われていない。ここに観光行政の現代的課題や、広義の健康を意味する「ウェルビーイング」確保といった問題がのしかかる。
このような現状と課題に対し、どのような将来像を描くことができるのか。次回はその取り組みを紹介したい。
【こしろ・かおる】仁川学院、伊丹西高、神大工学部卒。2013年神大院工学研究科修了。18年神大経済経営研究所特命講師。専門は近代都市形成史。小代薫建築事務所(芦屋市)を主宰しNHK「ブラタモリ」にも出演。神戸市灘区在住。
























