「遊び場」の大切さを語る米山清美さん(左)=西宮市久保町(撮影・吉田敦史)
「遊び場」の大切さを語る米山清美さん(左)=西宮市久保町(撮影・吉田敦史)

公園に次々仮設住宅 遊べないストレス

 阪神・淡路大震災で避難所となった小学校は、被災者がひしめき、校庭は救援物資を運ぶ車などで埋め尽くされた。しばらくすると、公園に仮設住宅が次々建設されていった。大人たちは誰もが、生活再建に必死だった。その中で、子どもたちが取り残された。

 元幼稚園教諭で幼児教室を開いていた米山清美(72)=当時42歳、西宮市=は地区の子ども会の会長だった。自宅は無事だったが、娘が通っていた小学校は避難所となり、救援物資の仕分けなどを手伝った。足しげく通ううち、ふと異変に気付いた。興奮気味で異様に元気な子。急にかんしゃくを起こす子。震災前では考えられないほど、そんな姿を多く見た。

 「遊べないため、ストレスを抱え込んでいる」。直感した米山は子どもたちが絵を描いて遊べる場を設け、校庭の空いている一角で遊ぶように呼びかけた。