年間売上高1兆円達成の日、祝賀の張り紙を破ると「5年後の目標4兆円」の文字が書かれていた=昭和55(1980)年2月16日、神戸市生田(現・中央)区三宮町1

 神戸市西区の流通科学大学の構内にあるダイエー資料館に入った途端、ピアノの前奏に続いて合唱の録音が流れた。〽ダイエーは 気負える鳥ぞ/嘴に 意志をあらわし/胸のうち 使命をいだく/飛びたって 高きを飛ぶ-。作詞山口誓子、作曲大橋博の社歌1だ。平明な響きににじむ強い自負。メロディーが頭の中で鳴り続ける。

年間売上高1兆円達成を祝う人たち。中央は中内功氏=昭和55(1980)年2月16日、神戸市生田(現・中央)区三宮町1

 1957(昭和32)年に開業したダイエーの軌跡を再現した企業ミュージアムの趣だ。主婦の店・ダイエー薬局のファサードが不思議な磁力を放つ。懐かしい制服やチラシ、新聞広告が並ぶ。企業スポーツのコーナーではオレンジアタッカーズ、福岡ダイエーホークス、陸上部と往時のプレーヤーたちの活躍がよみがえる。

インタビューにこたえる中内功氏。店舗を各地に広げていった=昭和39(1964)年7月24日、神戸市のダイエー本部

 大学構内には創業者中内功の実家のサカエ薬局(神戸市兵庫区東出町)を移築した記念館もある。戦争、復興、高度成長…。「流通革命」「価格破壊」を掲げて戦後社会を駆け抜けた83年の生涯。激動の昭和が凝縮された空間に圧倒される。

神戸新聞で一日編集局長を務める中内功氏。新聞記者になりたかったという=昭和47(1972)年3月14日、神戸市葺合(現・中央)区雲井通7

 「50年前の敗戦時の神戸の焼け跡が脳裏に浮かぶ。この危機を乗り切れるのは、戦争を体験した自分しかいない」-。中内は阪神・淡路大震災直後の思いを自著でこう振り返っている。「街の明かりを消したらあかん」。中内はげきを飛ばし、長男の潤が当日早朝にできた対策本部を指揮した。手を尽くし、ヘリコプターやフェリー、タンクローリーなどを総動員し、被災地に物資を届けた。がれきの街に空襲で焼け野原になった半世紀前の惨状が重なった。

姫路店開店初日に集まった買い物客=昭和49(1974)年12月6日、姫路市二階町

 神戸には随所にダイエーの「夢の跡」がある。高度成長期、神戸市は「山、海へ行く」として名をはせた開発手法で成長路線をひた走った。ダイエーも市の開発地域に相次いで進出。スーパー、レストラン、ホテル、大学…。全国で推し進めた拡大路線、多角化路線はバブル崩壊のダメージをまともに受けた。地価下落で土地の含み益は消え、担保力は落ち、資金調達が難しくなった。消費のトレンドも変わった。結果、2兆円超の有利子負債を抱え、小泉純一郎政権時代、不良債権処理の象徴となった。紆余曲折の末、2004年に自主再建を断念し、国が主導する産業再生機構へ支援を要請した。

神戸大経営学部の「トップ・マネジメント講座」を受け持ち学生に講義する中内功氏=昭和62(1987)年4月16日、神戸市灘区六甲台町2、神戸大学

 中内ダイエーの終焉。それでも「流通革命」にかける情熱は揺るがなかった。晩年、流科大で後進の育成に力を注いだ。中内は自著で書いた。「私が、志、道半ばで倒れようと、わが屍(しかばね)を乗り越え、一歩でも前へ進め」

阪神・淡路大震災翌朝に被災地各地で開店。生活用品を求め、西宮店には約2300人が列を作った=平成7(1995)年1月18日、西宮市林田町

 戦後80年の今年は中内の没後20年でもある。今月4日、ダイエーグループのOB・OG会を結び付け、創業者の中内が掲げた「流通革命」を次世代に伝えようと「シン・流通革命を考える会」の交歓会が開かれた。全国から駆けつけた40~90代の約200人が気勢を上げた。(敬称略)

(特別編集委員・加藤正文)

流通科学大学構内に設けられている中内功記念館。中内氏の実家「サカエ薬局」が移築されている=神戸市西区学園西町3

「消費者に安売りしてなぜ悪いのか」不評に反論する記述について語る息子の中内潤さん=神戸市西区学園西町3、中内功記念館

握手ができる中内氏の手の実物大レリーフがある=神戸市西区学園西町3、中内功記念館

ダイエー資料館に再現されている「主婦の店・ダイエー薬局」の店構え=神戸市西区学園西町3、ダイエー資料館