
3月17日の空襲で、逃げ場を失った500人以上が亡くなったとされる大輪田橋。日没後、猛火で黒くなった痕跡が光で浮かび上がった=神戸市兵庫区中之島2(撮影・丸山桃奈) 81年前、この街に住んでいたならば、そこかしこに降り注ぐ焼夷弾(しょういだん)や銃弾から生き延びられただろうか。ろくに食糧などなく、防空法で避難が禁じられていた、あの時代の中で。
1945年2月に始まった神戸への本格的な空襲は、3月17日、5月11日、6月5日の攻撃で、市域がほぼ壊滅した。瀟洒(しょうしゃ)でにぎわいのあった町並みが失われ、一面焼け野原となった。
多くの人生が引きちぎられた痕跡は、今もなお、私たちが暮らす街に残っている。石造りの橋に、鉄道の高架に、子どもたちが遊ぶ公園に、確かに存在する。
犠牲者の数は、正確には分かっていない。8千人とも言われる中で、市民グループ「神戸空襲を記録する会」が集めた名前は現在、2267人。今月6日、その全員の名前を初めて読み上げる。
一人一人の無念を思い、惨禍を繰り返さぬために。

500人以上が亡くなったとされる大輪田橋=神戸市兵庫区中之島2(撮影・丸山桃奈)
500人以上が犠牲になったとされる大輪田橋。炎で茶色や黒色に焦げた跡が残る=神戸市兵庫区中之島2(撮影・丸山桃奈)
500人以上が犠牲になったとされる大輪田橋。炎で茶色や黒色に焦げた跡が残る=神戸市兵庫区中之島2(撮影・丸山桃奈)
500人以上が犠牲になったとされる大輪田橋。炎で茶色や黒色に焦げた跡が残る=神戸市兵庫区中之島2(撮影・丸山桃奈)
JR三ノ宮駅の高架に残る機銃掃射跡。銃弾に貫かれた厚い鉄板の上を電車が走り、その向こう側のホームには人が行き交う=神戸市中央区(魚眼レンズ使用/撮影・丸山桃奈)
JR三ノ宮駅の高架に残る機銃掃射跡=神戸市中央区(魚眼レンズ使用/撮影・丸山桃奈)
JR三ノ宮駅の高架に残る機銃掃射跡。銃弾に貫かれた厚い鉄板の上を電車が走り、その向こう側に人の行き交うホームが見える=神戸市中央区(撮影・丸山桃奈)
JR三ノ宮駅高架に今なお残る機銃掃射痕=神戸市中央区(魚眼レンズ使用/撮影・丸山桃奈)
神戸空襲による犠牲者の名前が刻まれた「いのちと平和の碑」。現在は2267人で、まだ大きな余白がある=神戸市中央区楠町7、大倉山公園(撮影・斎藤雅志)
2013年に建てられた「いのちと平和の碑」。反対面には神戸大空襲で犠牲になった人たちの名前が刻まれている=神戸市中央区楠町7、大倉山公園(撮影・斎藤雅志)
大倉山公園の北側にある「いのちと平和の碑」。反対面には神戸大空襲で犠牲になった人たちの名前が刻まれている=神戸市中央区楠町7(撮影・斎藤雅志)
神戸大空襲で犠牲になった人たちの名前が刻まれている「いのちと平和の碑」。大粒の雨に打たれていた=神戸市中央区楠町7(撮影・斎藤雅志)
神戸空襲の犠牲者の名前を刻んだ「いのちと平和の碑」=神戸市中央区楠町7、大倉山公園(撮影・長嶺麻子)
5月11日、軍需工場だった川西航空機甲南製作所(現・新明和工業)を標的とした空襲で、攻撃目標とされた朱鳥居=神戸市東灘区森南町(撮影・長嶺麻子)
1945年5月11日、軍需工場だった川西航空機甲南製作所(現・新明和工業)を標的とした空襲で、攻撃目標とされた朱鳥居=神戸市東灘区森南町(撮影・長嶺麻子)
1945年5月11日、軍需工場だった川西航空機甲南製作所(現・新明和工業)を標的とした空襲で、攻撃目標とされた朱鳥居=神戸市東灘区森南町(撮影・長嶺麻子)
空襲でぽつんと焼け残った神戸ムスリムモスク。当時のままの窓から、そっと外を眺める=神戸市中央区中山手通2(撮影・丸山桃奈)
神戸空襲では周辺一帯が焼け野原になったが、1935年に建てられたモスクは当時のまま残っている=神戸市中央区中山手2(撮影・丸山桃奈)
一面焼け野原になった中、ぽつんと残った神戸ムスリムモスク。戦時中、日本軍が使っていたという半地下の部屋も黄色の窓から光が差す=神戸市中央区中山手通2(撮影・丸山桃奈)
神戸空襲では周辺一帯が焼け野原になったが、1935年に建てられたモスクは当時のまま残っている=神戸市中央区中山手2(撮影・丸山桃奈)
空襲で焼け野原の中、ぽつんと残った神戸モスクの周辺も、今では多くの建物に囲まれている=神戸市中央区、ビーナスブリッジから(撮影・丸山桃奈)