三田空襲を実行したとみられる米軍の戦闘機「P51」。硫黄島を拠点にしていた(米国立公文書館蔵)
三田空襲を実行したとみられる米軍の戦闘機「P51」。硫黄島を拠点にしていた(米国立公文書館蔵)

 1945(昭和20)年7月19日に三田市が米軍機に襲われ、児童ら5人が亡くなった「三田空襲」について、実行したとみられる米軍部隊の記録が米国に残されていたことが、神戸新聞社の取材で分かった。本来の目標だった阪神間の飛行場だけでなく、周辺も手当たり次第に攻撃した様子が記されていた。軍事施設のない地方都市の同市が狙われた理由は判然としていなかったが、一連の攻撃に巻き込まれた可能性が高いことが判明した。(杉山雅崇)

■実行部隊、米軍記録で判明

 三田市史などによると、戦闘機の機銃掃射などにより、三輪国民学校の児童4人と成人女性1人が亡くなった。十数人が重軽傷を負い、周辺の4戸が全焼した。児童のうち1人は、学校の講堂付近の屋内にいて銃弾が当たり死亡。別の2人は集団下校中に頭部や脇腹に銃撃を受けた。成人女性は田んぼで草刈り作業中に頭部を撃たれた。