中作平次さんの写真を手にする川西大馳さん(左)と祖母の松田文子さん=神戸市中央区、兵庫県遺族会館
中作平次さんの写真を手にする川西大馳さん(左)と祖母の松田文子さん=神戸市中央区、兵庫県遺族会館

 終戦から78年。戦争経験者とその子ども世代が少なくなり、記憶や教訓の継承が課題となっている。葺合高校1年の川西大馳さん(15)=神戸市灘区=は戦没者のひ孫世代を代表し、全国戦没者追悼式で献花する予定だったが、台風の影響で断念した。それでも祖母松田文子さん(79)=兵庫県加古川市=から言われた「身内にもつらい思いをして亡くなった人がいたことを覚えておいてほしい」という言葉を胸に、平和の願いを新たにしている。

■終戦後、ボルネオで死亡

 松田さんの父で、川西さんの曽祖父に当たる中作平次さんは神戸市林田区(現長田区)出身で、28歳だった1944年7月に召集された。どんな軍務を担ったかは不明だが、終戦後の45年9月14日、東南アジアのボルネオ島で死亡した。マラリアに感染したことによる戦病死だった。

 母は戦後に再婚し、松田さんは母方の祖父母らと加古川市で暮らした。生後2カ月の時に出征してしまった上、父のことを知る人は家におらず、話題に上がることはなかった。

■俳優の佐田啓二さん似

 唯一、父の話をしてくれたのは神戸に住む父方の祖母だった。学校の長期休暇のたびに遊びに行くと、戦地からの手紙やアルバムを開いて教えてくれた。

 養子だったが、実の子のようにかわいがったこと。俳優の佐田啓二さんに似た男前だったこと。手紙にはいつも、バナナやパパイアがいっぱいあるから内地にも送ってあげたいと書いてあったこと。帰還を待ちわびていた祖父が、父の死が通知される直前に亡くなってしまったこと-。

 幼かったため、覚えていることは少ない。祖母が亡くなり、何度も読まれたであろうぼろぼろになった手紙3通と1枚の写真だけ受け取った。戦地の同僚が持ち帰った軍隊手帳や頭髪なども残っていたが、「大事な物と分かっていなかったんかな。なぜか手紙と写真だけもらって帰ったんです」と松田さんは話す。

■「私が父のことを伝えないと」

 7、8年前に初めてボルネオ島を訪ねた。お供え物を持って行きたかったが、何が好きだったのか知らなかった。「こんなに簡単なことさえ分からない。聞く相手もいない。私が父のことを伝えないと、存在そのものを忘れられてしまう」。それが怖く、寂しく感じたという。

 追悼式への参列は、松田さんから孫の川西さんに提案した。「高校生になったし、できる限りは教えたいと思った」と松田さん。遺品の手紙の存在も参列が決まって初めて伝えた。

 日本では戦後生まれの人口が8割を超えた。一方で、世界に目を向ければロシアによるウクライナ侵攻が続いている。川西さんは「僕たち世代が伝えていくために、まずは身近な戦争体験を知ることが大事だと思った。悲しい思いをする人が減るように伝えていきたい」と話した。(谷川直生)