豊田亨の筆跡。几帳面で穏やかな性格がうかがえる(関係者提供)
豊田亨の筆跡。几帳面で穏やかな性格がうかがえる(関係者提供)

 1995年3月20日朝。地下鉄日比谷線の恵比寿駅に近づきつつある車両の座席に27歳の豊田亨(とおる)は座っていた。足元には新聞紙にくるんだナイロン袋。ためらった後に、とがらせた傘の先で数回突き刺す。中から猛毒のサリンが漏れた。

 オウム真理教による地下鉄サリン事件では14人が死亡、6千人以上が重軽症となる。豊田の車両でも多くの死傷者が出た。

 約2カ月後、弁護士の長﨑俊樹(71)は警視庁品川署で勾留中の豊田と向き合っていた。4日前にたまたま当番弁護士として接見し、この日が2回目だった。

 「今後は教団の弁護士を雇いますか」と長﨑が尋ねると、豊田は「教団の弁護士以外に依頼したい。大変だと思うがお願いします」と頭を下げた。約半年後には教団に脱会届を出す。

 礼儀正しく古武士のような印象。質問には包み隠さず答える。サリン散布の容疑もごく初期から認めた。

 「なぜあんなことを」。長﨑は接見のたびに同じ質問を繰り返す。

 「やらなくてすむならばやりたくないが、指示された以上はやらなければならないという気持ちだった」

 「みんなのためになると思っていた」

 ふに落ちる理由は返ってこない。豊田自身もよく分からないのだと感じた。

 オウム真理教の教義は殺人を許容する。命を奪えばその人が悪い行いを重ねるのを防げ救済に導ける-。こじつけの理屈を無条件で信じ込まされていた。

 長﨑ら3人の弁護団は精神医学や宗教学の専門家を訪ね歩く。心を操作される「マインドコントロール」の説明を受けるが、なぜそうなったのか明確な答えは得られなかった。

 公判で弁護団は、責任能力が著しく低下した状態だったと主張したが、豊田は被害者に配慮し一切弁解しない。東京地裁の判決は、被告の反省を評価しつつ極刑は回避できないとした。

 「社交性もユーモアもあるナイスガイの彼を何としても助けたかった」。長﨑は、控訴審以降は別の弁護士に交代する。新たな視点を入れた方が豊田のためになるとの判断だった。

    ◇

 オウム真理教家族の会を支えてきた永岡弘行(86)と妻英子(77)は、豊田を自身の長男と重ねる。

 弘行はある日、長男に聞かれた。「おやじは人のために何ができるか考えているか。俺は常に考えたい」

 息子の成長を感じ、頼もしかった。だが、その言葉は信者獲得を狙う教団の誘い文句だと後で知る。

 弘行は出家した長男を脱会させた後も、同じ悩みを持つ親を支援した。それゆえ教団に敵視され、95年1月に猛毒のVXで襲撃される。一時は生死の境をさまよったが、退院後は再び信者の家族と手を携える。

 「犯罪に加担させられた信者も被害者なんです」

 英子は、豊田の母親と共に拘置所で本人と面会したことがある。会話の様子はごく普通の母子だった。事件さえなければ-。

 地下鉄サリン事件の実行役を担わされ、50歳で死刑を執行された兵庫県出身の元幹部、豊田が迷宮をさまよい脱した軌跡を追う。(敬称、呼称略)

 この連載は論説委員・田中伸明が担当します。