太平洋戦争終盤、都市部の子どもたちは空襲を逃れるため親元を離れ、山間部に「疎開」した。兵庫県内の国民学校(現在の小学校)からも2万6千人超が県内外へ避難したという。神戸の小学校などには、教員や児童がひもじく心細い暮らしの記憶を記した文集が残っている。(杉山雅崇)
神戸市長田区二葉町1にある真陽小学校は140年近くの歴史がある。終戦の11年後に発行された「七十年のあゆみ」という記念誌に引率教員の苦悩が記されている。
同校の子どもは1944(昭和19)年から終戦まで但馬地域などへ集団疎開していた。引率教員の一人は「食糧難に悩んだ」と記している。
野菜が乏しい所で、私はなんとかしたいと自転車に乗って遠くへ買出しに行ったものです。子供がかわいそうでかわいそうで、いても立ってもいられぬ毎日の連続でした。