試合後、苦しそうな表情でコーナーに座る重岡銀次朗=5月24日、インテックス大阪
試合後、苦しそうな表情でコーナーに座る重岡銀次朗=5月24日、インテックス大阪

 5月に大阪で開頭手術を受けた重岡銀次朗は、約1カ月後に命の危機を脱した。8月に熊本へ転院。兄優大は心に決めた引退を発表し、弟とともに故郷へと戻った。

 兄弟というより「親友」だった。2歳差の2人は幼少期に空手、小学校でボクシングを始めた。父の功生は格闘技経験はなかったが、指導は厳しかった。学校から帰るとロードワークからバスで30分かけてジムへ。父も仕事後に毎日顔を出す。それが兄弟には憂鬱(ゆううつ)だった。

 スパーリングの内容が悪いと、カミナリが落ちる。自宅まで走って帰らされることもあった。「おやじが厳しすぎて、僕も銀(次朗)も必死。おやじに認めてもらうためにやっていた。思いは2人一緒でした」と、支え合って歩いてきた。

 高校時代はともにアマチュアで活躍。東京でプロデビューし、2023年4月16日、故郷を襲った熊本地震の本震から7年となる日に、ミニマム級の2団体で兄弟そろって世界王者となった。国内では亀田3兄弟、井上尚弥と拓真に続く国内3組目の兄弟の世界王者。故郷での世界戦の夢も描いた。父も喜んでくれた。しかし、予期せぬ形で2人のボクシング人生は幕を閉じた。

 入院中の銀次朗が初めて声を発したのは、優大の妻が第1子を身ごもり、女の子だと告げた時の笑い声だった。リハビリで意思疎通などの回復が進むにつれて「逆になかなか回復しないところもわかってきた」と兄は今後の長い道のりを思う。それでも「本人はボクシングをやったことを後悔してない。自分で選んだ道を、むしろ誇りに思っていると思う」と代弁する。

 後悔していないからこそ願いがある。「日本のボクシング界は何かを変えないといけない。でないとまた事故が起こる」。仲間を、自分たちがいたあのまぶしいリングを守りたい。=敬称略=(船曳陽子)