柳田国男は兄の松岡鼎(かなえ)と井上通泰(みちやす)の援助で東京帝国大学(今の東京大学)に行き、エリート官僚となって、貴族院書記官長まで務めた。弟の静雄は海軍兵学校に行き、海軍大佐で退役した。輝夫(号は映丘(えいきゅう))は東京美術学校(今の東京芸術大学)に行き、母校の教授になった。奇跡のような実績であるが、松岡家は家と土地を売って離郷するほど困窮したことは忘れられない。
柳田国男は兄の松岡鼎(かなえ)と井上通泰(みちやす)の援助で東京帝国大学(今の東京大学)に行き、エリート官僚となって、貴族院書記官長まで務めた。弟の静雄は海軍兵学校に行き、海軍大佐で退役した。輝夫(号は映丘(えいきゅう))は東京美術学校(今の東京芸術大学)に行き、母校の教授になった。奇跡のような実績であるが、松岡家は家と土地を売って離郷するほど困窮したことは忘れられない。