震災直後の写真を見せてもらい、崔敏夫さん(右)の話に耳を傾ける山崎まはなさん=神戸市須磨区千歳町1
震災直後の写真を見せてもらい、崔敏夫さん(右)の話に耳を傾ける山崎まはなさん=神戸市須磨区千歳町1

 元日(がんじつ)に石川県の能登半島(のとはんとう)を大きな地震(じしん)が襲(おそ)いました。29年前の1995年1月17日には、淡路(あわじ)島北部を震源(しんげん)とする阪神・淡路大震災(しんさい)が起きています。小中学生のみなさんは防災(ぼうさい)教育の授業(じゅぎょう)で学ぶでしょう。今回は実際にあの震災で20歳(さい)だった息子(むすこ)を失い、語り部として活動している崔敏夫(チェミンブ)さん(82)=神戸市須磨(すま)区千歳(ちとせ)町1=にお話をうかがいました。インタビュアーは、まなびーサポーターで同市北区八多(はた)町の市立義務(ぎむ)教育学校八多学園8年、山崎(やまさき)まはなさん(14)です。

 -どうしてつらい体験を語ってくれるのですか。

 「阪神・淡路大震災は人生の大きな転機。(帰省(きせい)していた息子が前日に東京へ戻(もど)る予定だったのを引き留(と)めた)自分の一言のせいで息子の命を守れなかったという責任(せきにん)感もあり、地震を体験していない人にも自らの体験を知ってもらうためです」

 -地震の時、ボランティアの方はたくさん来られましたか。

 「ボランティアの方々も炊(た)き出しをしてくれました。この地域(ちいき)では同胞(どうほう)の在日(ざいにち)コリアンたちのつながりが強く、多くの支援(しえん)や暖(あたた)かい食事を提供(ていきょう)してもらいました。隣(となり)の小学校(の避難(ひなん)所)にも食事を提供。みんなで助け合いました」

 -地震の恐(おそ)ろしさを知らない人たちに何を一番伝えたいですか。

 「命の大切さを一番伝えたい。自分の命は自分で守るという考えにおいて、地震の恐ろしさを知ることや自分は大丈夫(だいじょうぶ)という考えをしないことがとても大切です」

 -ありがとうございました。

 ■取材を終えて■

 地震が起きたときには地域住民の協力が不可欠(ふかけつ)で、避難の際(さい)には車椅子(くるまいす)を使う障害(しょうがい)者や、動物に対する理解(りかい)も必要だと思いました。そのため、普段(ふだん)から地域でのコミュニケーションを大切にすることが地震に備(そな)える一歩だと感じました。(山崎まはな)

<まなびー担当(たんとう)記者の一言>

 崔敏夫(チェミンブ)さんが暮(く)らす神戸市須磨(すま)区の千歳(ちとせ)地区は阪神・淡路大震災(あわじだいしんさい)で住宅(じゅうたく)の9割(わり)が倒(たお)れたり、焼けたりした。崔さんの自宅も倒壊(とうかい)し、1階で寝ていた次男で、東京の朝鮮(ちょうせん)大学校2年生だった秀光(スグァン)さんが助からなかった。

 成人式に出席するため、東京から帰って来ていた秀光さん。崔さんは「体調がすぐれない様子だったので、(震災の前日に東京へ戻(もど)る予定だったのを)つい『つらかったら、あした帰ったら』と言ってしまった。言わなければ良かった」と悔(く)やむ。前日の夜に一緒(いっしょ)に銭湯(せんとう)に行き、背中(せなか)を流し合いながら、将来(しょうらい)は母校の先生になりたいという息子の夢(ゆめ)を聞いた。まさか、それが最後の思い出になるとは考えもしなかった。

 崔さんは片時(かたとき)も秀光さんを忘(わす)れることはない。今は語り部として次世代に震災の恐(おそ)ろしさを伝え、地域(ちいき)の防災(ぼうさい)にも力を尽(つ)くす。インタビュアーの山崎(やまさき)まはなさんに「命、愛、絆(きずな)が大切」と優(やさ)しく語りかけていた。

(鈴木久仁子(すずきくにこ))