米山さん親子の話を聞く子どもたち=2日、神戸市中央区東川崎町1
阪神・淡路大震災から学ぶ「こども震災学校」の夏休み特別編が8月2日、神戸市中央区の神戸新聞社で開かれ、小学生11人と保護者ら計約20人が参加しました。講師は北淡震災記念公園(淡路市小倉)の総支配人米山正幸さん(59)と、長女で語り部の未来さん(30)=いずれも淡路市在住=です。被害が集中した淡路島の北淡町(現・淡路市)の富島地区で、消防団員として救助活動をした正幸さんと、まだ生後2カ月で、当時の記憶がない未来さんが「過去の災害を生かして命を守ってほしい」と呼びかけました。 (上田勇紀、杉山雅崇)
■近所付き合いが救助後押し 北淡震災記念公園総支配人 米山正幸さん(59)
1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が起こりました。北淡町の富島地区では家の多くがぺしゃんこになったり、傾いたりしました。
でも、その前から、地元の消防団の人たちが住民とよく連絡を取り合い、近所同士の付き合いもしっかりしていた。だから、あのおじいちゃんは1階の奥の部屋で寝てるとか、知っていたんです。ここに人が埋まってるというのがすぐ分かりました。
そのおかげで、町内で生き埋めになっていた約300人を、地震のあったその日のお昼過ぎには全員助け出すことができました。
私も消防団員でした。2カ月の赤ちゃん(未来さん)を間に挟んで、奥さんとベッドに川の字になって寝てました。ドーンという大きな音と突き上げるような衝撃。気がつくと奥さんが、赤ちゃんの上に覆いかぶさっていた。私もそれに覆いかぶさりました。
家族を避難所に送り届けた後、住民、消防団員が入り交じっての救助活動に加わりました。助けを待っても間に合わない。救急車なんかいつ来るか分からない、できることからやろうって。バールやジャッキなど、あるものを使いました。
北淡町にはたくさんの物資が届いて、ボランティアもたくさん来ていただいた。本当にありがたかった。1995年は「ボランティア元年」と言われます。ただ、そのうち一部の住民が甘えて何もしなくなりました。被災者の自立を支援するのが、ボランティアで一番大事だと学びました。
地震でも風水害でも、発生そのものを防ぐ力は人間にはありません。自然災害は起こります。完璧な防災などあり得ない。それなら少しでも被害を減らすことを考えようって思いからできた言葉が「減災」です。
家の中で本棚や食器棚が倒れてこないように、必ず金具などで止めてもらいたい。懐中電灯やラジオを準備しておく。町歩きをして自分の町を知っておくことも大事です。いざ地震が起これば、自分の命は自分で守る。家族も守る意識を持ってほしい。人を呼びに行く、声を出すだけでも立派な救助活動です。
■教訓は多くの犠牲の上に 生後2カ月で被災 米山未来さん(30)
阪神・淡路大震災が起きたとき、私はまだ生後2カ月の赤ちゃんでした。だから、あの震災の記憶はありません。でも、成長する中でたくさんの被災者の体験談を聞きました。
あの日、自分が住んでいる町で多くの命が奪われ、みんなが悲しい思いをしました。そして、みんなと同じぐらいの年齢の子どもたちも亡くなってしまいました。
災害はいつどこで起こるか、誰にもわかりません。自宅にいるときかもしれないし、学校や外出先かもしれない。
地震が起きてしまったときに、みんなにあの日と同じような辛くて悲しい経験をしてほしくない。そして、みんなに絶対生きていてほしい。だから、私が聞いた体験を今日ここで話すことにしました。
命を守るためには、普段からの備えがとても大切です。非常持ち出し袋の準備はもちろん、眼鏡や薬など、自分に必要な物をしっかり確認しておくことも忘れないでほしいです。あと、災害用伝言ダイヤル「171」も使い方を確認しておきましょう。
災害が起こっても、「まさか自分が」「この地域は大丈夫だろう」と思わないことも大切です。「避難が恥ずかしい」と思ってしまう人もいますが、自分から避難行動がとれるようにしよう。
阪神・淡路などの過去の災害では多くの人が亡くなりました。そして、その人たちの命の上に成り立っているのが教訓です。その人たちの犠牲で、みんなが「いざという時」に備えられていることを、覚えておいてほしい。
それからもうひとつ。「ありがとう」「ごめんね」「大好きだよ」って、普段言えていない言葉こそ、今日伝えてください。災害が起きたあとでは、伝えたくても伝えられなくなってしまうかも知れません。
私が今日話した内容のうち、何か一つでもみんなに伝わっていたらうれしい。そして、これまで学んだ災害や防災のことについて、ぜひ周囲の人に伝えて、会話をしてほしいなと思います。