血液のがんを患っていた佐藤純一さん(仮名)が70代で亡くなったのは、7月初めのことだった。看護を担当していたのが、「めぐみ小野訪問看護ステーション」所長の北山臣子(しんこ)さん(55)だった。
梅雨が明けた頃、私たちは佐藤さんの家を訪ね、遺影に手を合わせた。祭壇にビール系飲料の250ミリリットル缶が供えてある。「すぐ赤(あこ)うなる。やみつきや」。耳の奧で純一さんの声がした。
純一さんの取材では、いつもそばに妻のえみさん(仮名)が寄り添っていた。
純一さんは昨年11月にがんが分かり、入院した。病院の医師は「もう長くはない」という口ぶりだった。意識がもうろうとし、会話ができない時期もあったらしい。
「あの頃は、おおかた死んでたんや。おばあさん(母親)が出てきて、『そっち、いってもいいか?』って聞いたら『あかん』って。さんずの川の手前やね」
いったん退院したものの、2月に再び病院に入る。当時、抗がん剤治療に取り組んでいたが、いい結果が出なかった。抗がん剤を続けるのか、それとも-。
「家族で話し合い、『お父さん、もう家に帰ろうか』って」と、えみさん。3月半ば、純一さんは自宅に戻った。その日、介護タクシーでわが家に着いた純一さんは、4人に体を抱えられながら、長男夫婦や孫と暮らす家の階段を上がった。
「ベッドに、ドンと置いてもろた時、涙が出てきた。うれしかったのと、やれやれ、という安堵(あんど)感と」。そして、少しずつ元気を取り戻した。
入院中、固形物はほとんど食べられなかったが、退院して約3週間後に好物のトンカツを口にした。厚さ1ミリに薄くスライスしたら、飲み込めた。純一さんは「こまい身やけど、トンカツの味がした。これや!って」
えみさんが作った「白菜と豚肉の炊(た)いたん」も、刺し身もカレーも食べられた。点滴は必要なくなった。往診医の篠原慶希さん(69)の許可を得て、長男と晩酌を楽しむようになった。
純一さんは毎晩、「今日も一日、ありがとうございましたー」と言って、目を閉じた。取材ノートに、こんな言葉が残っている。
「わが家、いいですよっ。笑わへん日、あらへんもん」
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