夜中の0時を回ったころ、廊下に妹さんの悲鳴が響きました。真紀さんの妹さんは遠方に住んでいましたが、たまたまその週末、父の定期検診の付き添いのために実家を訪れていました。もしあの日、妹さんが来ていなかったら...今思えばそれが奇跡だったのかもしれません。
「どうしよう、お姉ちゃんが!救急車を呼ばないと!」
要介護2の父・一郎さん(79)を在宅で介護してきた長女の真紀さん(52)が、トイレで倒れて意識を失ってしまったのです。5年間、毎日欠かさず父の世話をしてきた真紀さん。その日も夕食後に父の薬を飲ませ、お風呂の介助をして、いつものように「お疲れさま」と自分に言い聞かせてトイレに向かったところでした。
救急隊が駆けつけたところ、真紀さんは脳出血と診断され、そのまま搬送されることになりました。お医者さんからは「少なくとも1か月は入院が必要です」と告げられました。いつも介護の"ハンドル"を握っていた人が突然いなくなり、父はその瞬間、自宅で"無人運転"状態になってしまったわけです。
妹さんは幼い子どもを抱えており、週末だけの滞在だったため、真紀さんの入院が決まったものの、すぐに自宅に戻らざるを得ない状況でした。「姉がいない家で、父をひとりにするわけにはいかない...でも私も家族がいる」。妹さんの心は引き裂かれそうでした。
■介護者の緊急事態に備える72時間
ここからの72時間は、在宅介護ではよく“勝負の3日間”といわれます。災害時の「72時間の壁」と同じように、人間が水なしで生存できる期間が約3日間(72時間)とされていることや、二次的要因などによって、時間経過とともに生存率が急激に低下するということなどが知られています。
真紀さんの家族が体験した、まさにその72時間の記録を振り返ってみましょう。
▽最初の12時間で必要な情報共有
まず最初の12時間で起きたのは「服薬情報がわからない」という非常事態でした。一郎さんの薬の名前と量を真紀さん以外の誰も説明できない状態でした。妹さんがお薬手帳を探し出してなんとかなりましたが、「もしものことが起こっていたら…」と思うとゾッとします。
こうしたトラブルを防ぐカギになるのが、「もしもカード(緊急時情報共有カード)」の活用です。介護保険証やかかりつけ医、服薬リストなどを一枚にまとめて、冷蔵庫など目に付く場所に貼っておくだけで、救急隊との連携がスムーズになります。真っ先に冷蔵庫周りをチェックする救急隊も多いので、紙一枚でも用意しておく価値は大きいでしょう。
▽次の24時間で検討すべき制度
翌朝、妹さんは職場に電話をかけました。「すみません、家族の緊急事態で...」。次の24時間で浮上したのは、仕事の問題でした。遠方に住む妹さんは仕事もあり、なかなか助けに行くことができません。幸い理解のある上司でしたが、「いつまで休むのか見通しが立たない」という不安が重くのしかかりました。
そこで検討すべきなのが「介護休業給付」という制度です。雇用保険加入者なら、最長93日間、給与の67%相当が支給される仕組みになっています。
何より重要なのは「まず口頭で"休みたい"と伝えておけば、その後に書類をそろえる形でも対応が可能」という点です。初動で慌てていると手続きにまで気が回らないのですが、ひとこと言っておくだけで"収入がゼロになるかも"という不安がいくぶん和らぎます。
▽72時間でショートステイ先を見つけるには
一番深刻だったのは「ショートステイ先が見つからない」という問題でした。
3日目の朝、妹さんは絶望的な気持ちでケアマネジャーに電話をかけました。しかし、「どこも満床で...」という返答ばかり。父を一人にして自宅に帰るわけにもいかず、妹さんは途方に暮れました。
実は、多くの自治体に「緊急ショートステイ」の仕組みがあり、介護者が急病や事故に遭ったときは優先的に空きベッドを確保してくれます。しかし、その手続きを動かすのは地域包括支援センターやケアマネジャーといった"プロ"たちです。事前に連絡網を整えておかないと、スムーズに動いてもらえません。
真紀さんの家族もそこまで想定していなかったせいで、結局ベッドが空くまで半日以上待つことになってしまったそうです。
■緊急事態に備える「逆算の備え」
それでも、真紀さんは入院から1週間ほどで意識を取り戻し、家族はそこでようやく“逆算の備え”に着手しました。
まず、妹さんがケアマネと話し合い、「もしもカード」を最新版に更新して冷蔵庫に貼りました。地元の介護施設リストと電話番号を書いたファイルも横に貼り付けました。弟さんは会社の人事に「いざというときは介護休業を使いたい」と正式に相談しました。
誰がどのタイミングで父を介護し、どこにヘルプを頼むかが明文化されたことで、家族同士のイライラもだいぶ減ったそうです。
■今すぐできる緊急時の備え
「もし、介護者が倒れたら?」と想像するだけで、準備はほぼ半分終わりです。あとはメモかファイル一つに情報をまとめるだけで、緊急時の負担はぐんと軽くなります。身近に要介護の家族がいる方はもちろん、今はまだピンと来ない人でも、いつか突然こうした場面に直面するかもしれません。
【監修】勝水健吾(かつみず・けんご)社会福祉士、産業カウンセラー、理学療法士 身体障がい者(HIV感染症)、精神障がい者(双極症2型)、セクシャルマイノリティ(ゲイ)の当事者。現在はオンラインカウンセリングサービスを提供する「勇者の部屋」代表。
(まいどなニュース/もくもくライターズ)