それは、震災がなければ考えられない光景だったかもしれない。
三月二十五日、神戸市東灘区の人工島・六甲アイランドで開かれた復興委員会の結成式。島内の自治会とマンション管理組合が母体の組織に、五十九の企業が正会員として参加、各社の代表が住民と席を並べた。企業は「住民」になったのである。
自治会長を兼ねる委員長の向田登志良さん(66)は、会場の半分近くを埋める各社の部課長クラスに目をやりながら考えた。自治会にも未加入だった島内立地企業の七割がこの場にいる。何が姿勢を変えたのか。
五年前まで大手広告代理店に勤務、仕事一筋だった自分の半生に照らすと、やはり意外に思えた。
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向田さんの入社は昭和二十七年。翌年、民間テレビ放送がスタート、活字から映像へと広告の需要も広がった。
定年まで、ほとんど営業畑で過ごした。休日出勤や泊まり込みは当たり前だった。子供と遊んでやった記憶もあまりない。高度成長期に重なった会社人生。会社のもうけが、そのまま生活の向上につながった。「地域奉仕など念頭にない会社人間だった」
その向田さんが、地域のために奔走した。地震発生から五時間後に対策本部を設置。飲料水や食料の調達を手配した。避難勧告が出た時は最後まで残り、住民の避難を見届けた。
島内企業も積極的にこたえた。バスや物資運搬用トラックを運行した社もある。混乱の中の協力は二カ月後、復興委員会に結実する。
「がむしゃらにやったのは、現役時代の習い性」と向田さんは言う。しかし、震災直後、本社の判断抜きに物資提供、人の派遣を即断してくれた企業人たちを考える時、向田さんは自問する。
「二十年前の自分に同じことができただろうか」
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神戸市須磨区の藤本秀俊さん(34)は七月二十日、五年間勤めた大阪市内の経営コンサルタント会社に辞表を出した。九月二十日付で退職する。
「震災後のボランティア活動で、仕事への考えが変わった」
一月二十四日から六日間、神戸市内の病院にボランティアとして飛び込んだ。人手不足とみて、一人で十人余りのボランティアを集め、作業別の班を編成、リーダー役を買って出た。「カネのためでなく、人助けに貢献できた。これが『働く』ことだと思った」
大学では経営学を専攻。卒業論文に「人は、それぞれの理想を実現するために働く」と書いた。が、現実の会社は「数字」の世界だった。
顧客数で能力を測られた。担当会社の業績向上は自分の給料アップにつながる。だからコンサルタント先では「一件でも多く新規開拓する努力を」と助言した。「何か違う」と感じ始めたころに襲った震災は、仕事に対する藤本さんの思いを原点に揺り戻した。
「仕事について、じっくり考える。将来はコンサルタントとして独立し、社員の地域活動を評価する企業を育てたい」。十月、同じ震災に見舞われた米国・西海岸に留学する。震災から街や人がどう立ち直ったのか見てくるつもりだ。
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「給料を上げようと懸命に働いた。それが家族を幸せにすると信じていた」と向田さんは振り返る。生き方は正しかったと思っている。
その向田さんの目には、利益を度外視した企業の援助活動は新鮮に映った。
「これまでも企業は地域社会に奉仕してきたが、それはもうけにつながるという意識があったと思う。しかし、震災で変わった。もうけだけでない地域とのつながりというか、地域なしに企業も存立できないとの意識が強まった」
向田さんは、そう理解している。
=おわり=
1995/8/20