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(2-1)都市の看板 揺らぐ国際イメージ
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 ニルス・グルーベル大阪・神戸ドイツ総領事には、他に選択肢がなかった。

 「震災後、領事館の神戸存続に努力してきたが、本国政府は大阪移転を正式に決定した」。六月二十二日、兵庫県庁を訪れ、貝原俊民知事にこう告げた。

 震災は総領事館が入居する三宮のビルを破壊し、明治七年以来の歴史に幕を引いた。だが、移転の理由はむしろ、経済関係の拡大に伴い領事館業務の比重が企業誘致、投資促進に傾斜したことにある。年間生産額は神戸の六兆円に対し、大阪は二十一兆円。立地条件の差は歴然としている。

 グルーベル総領事にとって、神戸勤務は二度目になる。住みよい環境、美しい街並みを愛し、望んで赴任した。それでも「単に街が好きなだけでは、どうしようもない」。

 神戸の領事館は、戦後の最盛期には十六カ国を数えた。震災で四カ国が移転し、残ったのは韓国とパナマだけ。国際都市の舞台装置は減少の一途である。

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 神戸の貿易会社は、戦後の十年で約百社から四百七十社に急増した。「輸出促進」「外貨獲得」が国是の時代。巨大な国際港を擁する神戸は、貿易の前線基地として急成長を始める日本と世界をつないでいた。

 三宮に本社を置く貿易会社「春日商会」の毛利治郎社長は昭和二十九年秋、大阪の貿易会社から途中入社した。当時、二十五歳。社員を募集中と聞いて訪れた本社は二十人ほどの小所帯だったが、渦巻くような熱気を感じた。「やっぱり貿易は神戸」と、その場で転職を決めたという。海外ビジネスにしのぎを削る業界の活況は、今も毛利社長の脳裏に焼き付いている。

 しかし、四十年代になって変化が始まる。メーカーの海外生産増強が中小貿易会社の役割を低下させ、情報化の進展は人や中枢機能を東京に引き寄せた。

 やがて、去り行く熱気を追うように、神戸市のイメージ戦略が加速する。ファッション都市宣言、異人館街の整備、観光、コンベンション誘致と続く事業はいずれも「国際都市」の看板を担う。そして、イメージは「欧米」を志向した。

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 「戦時中、インドネシアで死ぬ思いをした。震災でまた…」と黄金栄さんは話す。今年七十歳。台湾出身で元日本兵。震災で、神戸市内に所有する中華菓子工場と自宅が全壊した。

 大手パン会社の招きで四十六年、中華菓子の熟練職人として来日した。契約上のトラブルで二年で失職。強制送還されかけた経験もある。周囲の日本人はいつも温かく接してくれたが、「行政は冷たかった。国際都市だなんて」。

 金光清行・市国際部長は、明治の開港、居留地が都市イメージの基になったとしつつ「国際都市とは何か、という論議がないまま進んでいった。国内向けの国際都市だったかもしれない」と言う。

 神戸に住む外国人は八十六カ国、約四万二千人。イメージに反し、うち九割をアジアが占める。(戦後50年取材班)

1995/8/11
 

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