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(4-2)劇的な体験、家族を意識 みんな生きてた…それが喜び
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 がれきの中から取り出したホームこたつが、家族の食卓であり、子供たちの勉強机になった。

 「傷がいっぱい。でも捨てる気にはなれなくて」。卓を囲み、おだやかな時間が戻り始めた。

 一月十七日。神戸市東灘区の竹田光昭さん(37)宅は、わずか十数秒の揺れで崩れ落ちた。一階はぺちゃんこ、二階は道路の上。

 「ばあちゃん、生きてるか」。光昭さんの口からとっさに出たのは、妻の安輝子さん(38)の母、きくさん(75)への呼びかけだった。一階に一人で寝ていたきくさんは目が不自由。一人では逃げられない。階下から「はい」という落ち着いた声が返ってきた。

 光昭さんが窓から外に飛び出し、毛布にくるんだ長男の晃司朗君(10)と長女の晃那ちゃん(7つ)を、安輝子さんから受け取る。閉じ込められたきくさんは、近所の住民と二時間かかって助け出した。生と死、紙一重だった。

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 日常的には意識されない家族の存在は、危機的状況の中ではじめて意識に上る。竹田さん一家もそうだった。

 夫婦の結婚は十三年前。光昭さんは関西電力の技術者である。社宅で二人の子供が生まれ、晃司朗君が小学校に上がる前に東灘区の安輝子さんの実家で、きくさんと一緒に住み始めた。

 光昭さんは仕事がら、台風などの時は必ず会社に泊まり込む。家族にとって、「いてほしい時にいない存在」。が、今回は行けなかった。家族がひどくおびえている。地震から数日後、ようやく通じた電話で、「今月いっぱいは行けません」と会社に伝えた。

 家族の絆(きずな)とか、愛情とか、大げさな感覚はない。関係は、震災前と基本的には変わっていないと思う。ただ、生きるか死ぬかの体験は、お互いの「生」を意識し、確認する時間を増やした。

 地震後、光昭さんは「何かあった時のために」と、徒歩で通勤できる社宅を希望した。地震前は遅かった帰宅も、今は子供が起きている時間を意識するようになった。

 「台所にいるとき、ふとものの置き場所が以前と変わっているのに気付いて、『家がなくなったんだ』と思うことがある。でも、みんな生きていた。それがうれしい」と安輝子さんは言う。

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 家があった場所は、更地になった。きくさんは避難生活で衰弱し、三田市内の病院に入院中。再び一緒に住むためにも、早く家を再建したい。そして今、「地域」の存在、ありがたみを感じる。

 指を骨折しながら、きくさんの救助を手伝ってくれた向かいの主人。「中に入ったるで!」と申し出てくれた名も知らぬ男性。五日間、車とテントで生活し、一緒にいた家族が次々に避難していった時、「うちにおいで」と誘ってくれた向かいの家の娘夫婦。

 「親類でもなく、ただ知り合いというだけ。地域に支えられて生きているんだと、しみじみ思う」

 家族とは-。生活に埋没していた意識をあらためて呼び覚ました震災。それぞれの問いを抱きながら、家族は被災地で生き続ける。

1995/8/13
 

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