スナック「来瑠来流(ぐるぐる)」は、三月六日、神戸一の盛り場・東門街にほど近いビルの二階に開店した。
夜の街がまだ沈んでいた時期。「ガレキの中でようやるな」と客は冷やかした。でも、「三宮でお店を持つのが夢だったから」とママの山崎悦子さん(34)。友人で共同経営者の原田修子さん(33)が「やっぱり地元よね」と呼吸を合わせる。
震災で、山崎さんが勤めていた東門のクラブは損壊した。原田さんのいたスナックも一時休業。自宅は全壊した。二人とも母子家庭。休んではいられない。震災直後、神戸市東灘区のラウンジでアルバイトもした。姫路の店から誘いも受けた。
けれど、どちらも本意でなかった。女手ひとつで子供たちを育てた街、長年暮らし、働いた三宮である。離れる気などなかった。
店の敷金は、まけてもらって二百万円。家賃が月二十万円。山崎さんは貯金をはたいた。原田さんは実家がくれた転居資金を提供した。開店の案内状は、官製はがきにワープロ打ち。三百通出した。なじみの客には電話もかけたが「会社がつぶれたのに、ちゃらちゃらできん」と言われたこともある。不安だった。「いちかばちか」で開店日を迎えた。
反応はしかし、予想と違った。連日の満席。ボトルキープはあっという間に百本を超えた。
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アーケードが壊れ、二百五店舗のうち約百六十の店が全半壊した三宮センター街。東寄りの一丁目商店街の復興委員長を務める文具店社長、長澤基夫さん(56)は「三宮から本拠を移すなんて、考えたこともない」と話す。
創業は明治十五年。この地で、四代続く。父親は、戦災の焼け野原にバラックを建て、万年筆を売って店を守った。「土地に根を張っている。ここしかない」と信じている。
震災後、センター街には一・三丁目を統合した復興委員会も生まれた。商売の範囲を超え、街づくりにまで踏み込んだ協議組織は、過去にはなかった。独自の復興五カ年計画をつくる話も進む。
長澤さんの話では、一丁目で廃業したのは二店だけという。「阪神間なら梅田か三宮に本拠を構えるのが商売人の夢。ステータスかもしれない」
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センター街のすぐ北で自転車店を営む山田義明さん(69)には、忘れられない光景がある。
昭和三十三年十二月、隣に「主婦の店ダイエー」が開店した。神戸進出一号店。スーパーの草創期だった。「とにかく安かった。毎日すごい人で、びっくりした」。定価販売の常識を覆して値引きする新商法は、評判を呼んだ。
山田さんが打ち明ける。「この辺りはさびれていて”小便横丁”と陰口されていた。それが、いっぺんにきれいになった」
狭い通りは人波であふれ、山田さんの店の売り上げも二倍、三倍と伸びた。たった一軒のスーパーが、付近の雰囲気まで変えてしまった。
四カ月後、ダイエーが拡張のため移転。山田さんは「小便横丁に逆戻りか」と落胆したという。「今も似たような思いですわ」
民間資本が次々と投下され、街が大きくなる戦後の復興を目の当たりにしてきた山田さんだが、震災後の街の行方は分からない。
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震災から四カ月がたったころから、「来瑠来流」は少し暇になった。復活する店の数が増えたからだ。
景気低迷で経済に元気がなくても、街に生きる人々には三宮へのこだわりが脈々と息づいている。四千軒を超す三宮の居酒屋やスナックのうち、営業を再開した店は今、約千六百軒。その中には、新規開店も目立つという。
「みんなバイタリティーがありますよ」
山崎さんは、そう言ってほほ笑んだ。
1995/8/12