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(3-1)神戸の顔 真の都心へ 三宮再構築
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 震災から一カ月後、取締役会が出した結論は「解体やむなし」だった。

 神戸の中心地・三宮を象徴する建物のひとつ、神戸国際会館は、激震で八階建ての六階が座屈した。会館の坪田益男総務部長(59)は取締役の一人として、半生を過ごしたビルの運命を寂しい思いで受け入れた。

 兵庫県、神戸市、神戸財界が国際会館の建設構想を打ち出したのは昭和二十六年十二月。接収解除された進駐軍の「イーストキャンプ」を予定地に、二年後、当時の岸田幸雄知事を委員長とする建設準備委員会が発足する。大ホール、映画館にホテル、領事館まで入居した神戸初の本格複合施設は、戦災復興のシンボルと言われた。

 三十一年十月、開館披露式で、坪田さんは来賓の受け付けを命じられた。アルバイトから正社員になったばかり。「誇らしい気分がした」と覚えている。

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 三宮は昭和八年の阪神、十一年の阪急乗り入れで、鉄道交通の結節点となった。阪神と同年、そごうも進出。戦前、市内一の繁華街だった新開地のライバルとして台頭しつつあった。

 戦後も、闇市(やみいち)から二十一年誕生の三宮センター街へと、活気が絶えることはなかったが、三十年、神戸市が九カ所に分散する庁舎を統合した新庁舎(現二号館)建設を決定。三宮の地位は不動のものとなる。三十八年から八年の間に、さんちかタウン、交通センタービル、貿易センタービル、さんプラザが開業。行政、経済、娯楽、交通と、都市のあらゆる機能が集積された。

 「三宮には神戸の戦災復興史が凝縮されている」と笹山幸俊市長は語る。「歴史があればこそ、三宮は神戸の顔になれた」

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 その笹山市長が「三宮は未完成だった」と言う。

 戦後半世紀、経済集積を重ねてなお、である。

 小西阿佐男市アーバンデザイン室長は、「未完成」の意味を「無秩序に広がった集積地」と表現する。「駅前の雰囲気が雑然としている。長距離バスターミナルも分散。裏通りには、にぎわいがない。商業施設も物販に偏っている」

 震災は、その未完の街を直撃した。テナントビルに限っても、百三十五棟のうち四十三棟が全半壊、見慣れた風景を一変させた。

 神戸市はJR三ノ宮駅南の商業ビル群を地下、地上、空中の三層で結び、にぎわいを創出する青写真を描く。新時代の都心を再構築する構想の一環だが、成否のカギは「官民の相乗効果」とする。

 しかし、肝心の「民」は、バブル後遺症、円高、株安の逆風にあえぐ。

 「経済が右肩上がりだった戦後のように自然の流れに任せていても、復興は難しいのではないか。オフィス需要の回復さえ五年から十年はかかる」と日本生命の調査機関、ニッセイ基礎研究所は分析する。

 六月二十九日、国際会館の株主総会で建て直しが決まった。完成は四年後。経営陣は「再び復興のシンボルに」と号令をかける。(戦後50年取材班)

1995/8/12
 

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