■面的整備の道再選択
神戸市震災復興本部総括局に、一冊の分厚い本が置かれている。
「戦災復興誌第十巻」
全国の戦災復興を記録した書には、神戸市の取り組みが詳細に記されている。笹山幸俊神戸市長は「市のバイブルのような存在だ」と語る。一月十七日、震災直後に市役所に駆け付けた時、頭に浮かんだのは、この戦災復興計画だった。
終戦の翌年、昭和二十一年三月に計画はまとまった。元内務官僚、原口忠次郎(のち市長)が市の復興副本部長となり、復興委員は当時、大阪鉄道局長の佐藤栄作(のち首相)、京都大名誉教授の高田保馬ら。そうそうたるメンバーが焦土となった神戸の再生を検討した。
東西に貫通する山手、中央、浜手の三大幹線道路、三宮を産業・金融の中心として整備・など、都市の骨格を決めただけでなく、将来図を細かく描いた。
ホールやホテルをもつ国際会館は十年後に、阪急、阪神、山陽の三私鉄が相互乗り入れする「神戸高速鉄道」は約二十年後、三宮と郊外を結ぶ地下鉄は三十年余り後に実現した。
「深江沖(神戸市東灘区)に空港」との構想もあった。笹山市長は「途中で消えたのは空港だけだが、今、神戸空港として復活した。ほとんどを計画通りに進めた」と振り返る。地中ホールとして論議になった六甲シンフォニーホール構想も、戦災復興計画にある「オペラハウス」が原形という。
戦後の半世紀、神戸市は戦災復興計画に忠実に街づくりを進めてきた。
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復興事業の中心は、個人の土地を少しずつ出し合って道路や公園などを整備する土地区画整理事業だった。戦災を受けた地域を中心に、旧市街地の六割に当たる約二千ヘクタールが対象になった。
終戦直後の二十年十二月、東京、大阪など六大都市が神奈川県・箱根に集まり、戦災復興を話し合った。この時、「都市の改造は区画整理方式で」の方向が事実上、決まったという。
途中で大幅に事業縮小した都市が多い中で、神戸はほぼ計画通りに進めた。約五十年すぎた今も葺合(JR三ノ宮駅東)地区三百十六ヘクタールと、須磨(板宿)地区二百十四ヘクタールは、まだ一部の建物移転などが残る。
建設省によると、戦災復興の区画整理事業は全国では昭和四十年ごろにほぼ終わった。現在も続くのは神戸、大阪市のみ。百メートル道路で有名な名古屋とともに、神戸は区画整理の積極推進派であり続けた。
そして、戦災復興事業がようやく終わろうとしていた時、震災が襲った。
区画整理の”優等生”は再び、大規模な面的整備の道を選んだ。区画整理、再開発などは六地区二百三十三ヘクタール。都市計画畑一筋の笹山市長は震災直後から頭の中に絵があった。
「どの地域で何をしなければならないか。どんな事業が残っているか。それは分かっていた。戦災復興の延長だ。基本は変わらない」
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半世紀を隔てた二つの復興計画。市OBの高寄昇三・甲南大教授は「一卵性双生児」と呼ぶ。「住民の意見を聞かないままに決定された」と批判を浴びた区画整理事業などは、いわば戦災復興の総仕上げでもある。
笹山市長は倒壊した建物を見た時、こんな思いを抱いたという。
「戦後のやり直しだ」
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五十回目の「終戦の日」がくる。節目の年に起きた阪神大震災。暮らしが、都市が、一瞬にして壊れた。戦後、営々と積み上げてきたものが足元から揺らいだ。再び襲った災厄は、走り続けた日々をあらためて問い掛ける。
(戦後50年取材班)
メモ
神戸市の被害データ
死傷者 家屋
空襲 死者 6,235人 全半壊 3,528戸
負傷者 15,343人 全半焼 124,661戸
震災 死者 4,319人 全半壊 228,412世帯
負傷者 14,679人 全半焼 7,379棟
(空襲被害は東灘区を除く。震災死者は関連死を含む)