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(5-2)市民の暮らし置き去り 区画整理に協力したのに…
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 不思議な話だった。

 土地区画整理事業は、個人が土地を出し合い、防災上、安全な街づくりを行う。しかし、家が建てられない道がつくられていた。

 「行政に協力して、なぜ、こんなことになるのか」

 神戸市灘区の国道43号線から一筋南側。幅二メートルの狭い道に沿って更地が点々と広がる。理容業を営んでいた斉田昇さん(71)の自宅兼店舗も震災で全壊した。

 建築基準法では道路とはみなされない路地が、神戸市道だった。区画整理を行ったにもかかわらず、元通りの広さの住宅を再建できない。

 43号線周辺には二メートルの道が何本もあった。

    ◆

 戦後の大事業となる43号線建設に向け、神戸や尼崎、西宮、芦屋の各市は、終戦直後から住宅などの移転を進めた。兵庫県内の移転は約一万戸に上った。

 斉田さんの店は、現在の43号線西行き車線の上にあった。周辺は空襲被害が少なく、商店や住宅が密集していた。

 「幅五十メートルの道路ができる」と知ったのは昭和三十四年ごろ。寝耳に水だった。三十メートル南に移転し、しかも二五%の減歩(土地提供)。二十坪(六十六平方メートル)の土地は四分の三に減らされる。「あまりにひどい」と訴えた。このときの担当係長の言葉が忘れられない。

 「将来、立派な国道ができると、土地の価値が上がる。二十坪以上の値打ちになる」

 有無を言わせぬ態度だった。「動かないのなら最終措置をとる」と強制執行をにおわせた。協力するしかなかった。

 三十八年に県内全線が開通。想像以上に広い道路だった。街は分断され、北側に移り住んだ客はぴたりと散髪に来なくなった。

 道路中央では二階建ての阪神高速道路の建設が急ピッチで進んだ。大阪万博開催に合わせて四十五年に神戸西宮線が開通。車は洪水のように押し寄せた。大型車が通ると、ドドン、ドドンと家が揺れた。空気も悪くなる。

 「お客さんの鼻毛が目立って伸び始めた。自己防衛だと思う。阪神高速が駄目押しの形だった」

 「地価が上がる」「便利になる」といわれたが、逆だった。土地は減った。周辺の人口が減少して客も少なくなった。公害だけが残った。

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 区画整理で十五坪になった斉田さんの敷地。隣は十坪余りしかない。終戦直後から狭い土地の家が多く、減歩でより小さくなったため、住民は敷地いっぱいに家を建てた。そんな住宅が震災で倒壊した。

 住宅を再建する場合、建ぺい率で敷地の六割しか使えない上、道から一メートル下がらなければならない。

 「これでは家は建たない」。斉田さんの問い合わせに、神戸市は当初、「区画整理で二メートルの道をつくるはずがない」と答えた。しかし、古い資料を調べると、区画整理でできた「公道」に間違いなかった。

 市の担当者も困惑しながら話した。「終戦後は産業復興が大前提だった。幹線道路を早く整備する必要があったのだろう」

 住民の暮らしより道路建設が優先されていた。

 斉田さんは七月、廃業届を出した。震災でさらに住民は減った。店を再開しても資金回収は難しい。

 八月に入ってようやく仮設住宅の入居が決まった。しかし、家の再建はめどが立たない。

 「道路ができていいことは何もなかった」

1995/8/15
 

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