二月十日、川崎重工業神戸工場で緊急の労使協議会が開かれた。
震災で主力船台が損壊、被害額は八十億円に上る。会社側がどんな提案をしてくるのか、友井川紘一中央執行委員長には予想がつかないでもなかった。だが、現実に聞く内容は、やはり衝撃だった。
「当面の間、坂出工場に一般商船の生産を移す」「移管に伴い二百四十人を異動する」-。会社側は二点を示し、補足した。
「このまま神戸で船を造ろうとすれば、川重の船舶の未来がなくなりかねない」
国際競争力維持のため合理化に死力を尽くしている最中に、多大な復旧費用と時間をかけられるのか。ドックに余力のある坂出工場に集約するしかない、との言い分である。しかし「当面の間」とはいえ、異動規模は神戸工場の組合員の一割に近い。委員長として、簡単にのめる話ではなかった。
労使交渉はその後、二十回以上続くが、結局、四月二十四日、組合は会社提案を了承する。友井川委員長は言う。
「ぎりぎりの判断理由は雇用の維持だ。雇用さえ守れば、みんな神戸に戻る機会はある」
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重厚長大産業の代表選手・造船。戦後の神戸経済を鉄鋼とともにリードしたこの業界は、激しい浮沈を繰り返してきた。
朝鮮戦争特需で立ち直った造船は昭和三十一年、進水量で世界一の座に就くが、二度の石油危機で構造不況業種に転落。六十年以降は急激な円高で競争力が低下、二年前、輸出船受注量で初めて韓国に抜かれた。
その軌跡は神戸経済に光と影を投じた。造船を含む重厚長大産業の従業員数は、四十七年の七万八千八百人がピーク。平成三年には三万八千人に半減した。
合理化、人員削減、生産の海外シフト…。円高圧力を吸収するコストダウンをどの業界も追求する。当然、それは雇用に波及した。
そして、震災。被災企業は工場を閉鎖し、リストラ計画を強化し、オフィスを移転させた。円高と震災・神戸には二重の空洞化が影を落としている。
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配転が決まった従業員は六月から順次、坂出に向かった。
定年を五年後に控え、自宅が全壊したベテラン工員がいる。上司から十一回説得された末、辞令を受けた人もいた。ほとんどが単身赴任という。
川重は来年、神戸で創業して百周年になる。記念の年を目前にした建造休止に「ノスタルジーで語ってほしくない」と砂野耕一専務は言う。「どう生き残るか、必死なんだ。神戸だけにこだわっていては、会社を支えていけない」
国境をも越えて活路を求める企業の論理である。が、次の一点では労組の意見と符合する。
「最も大切なのは、社員一万七千人の雇用を維持すること。それが社会的責任だと思う」
地域経済の活性化と企業の論理。双方が折り合いを付けることの難しさを、震災は顕在化させた。(戦後50年取材班)
1995/8/17