なぜ差別禁止と言えないのだろう。素朴な疑問は膨らむばかり。LGBTなど性的少数者への理解増進法案を巡り、反対派が操る理屈に対してだ。
東京五輪・パラリンピックを控えた2年前、超党派の議員連盟が主導し、与野党の実務者が法案をまとめたが、自民党保守派の反対で国会提出が見送られた。今回自民党は先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)を前に修正案の提出を目指している。人権感覚の乏しい国というレッテルを返上したい狙いは分かるし、ぜひ返上してほしい。
だが、修正案にその力があるとは思えない。特に、基本理念にある「差別は許されない」との表現を「不当な差別はあってはならない」に変えた点だ。
自民側は反対派に配慮し「訴訟の乱発を防ぐため」などと説明するが、差別による被害を訴える権利は誰にもある。まるで「正当な差別」があるかのように見せかけて、差別を容認する表現になりかねない。「許さない」とはっきり言えないのは、差別する側に身を置いている自覚があるからではないか。
もっと残念なのは法案の議論に伴い、体と自認する性が異なるトランスジェンダーへの中傷やデマが広がっていることだ。
法制化されると女湯や女性トイレに「心は女性」と主張する男性が入ってくるといった想定には根拠も現実味もない。当事者団体によると、公共の浴場やトイレでは自分の外見から判断してトラブルにならない方を使っている人がほとんどだ。実態を知らず偏見を助長する風説が当事者をさらに苦しめている。
その苦しみを全て理解することはできなくても、人権を守ることはできる。そのための法整備だろう。立法府を担う人々は忘れないでほしい。
