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居留地研究の第一人者、神木哲男さん=神戸市中央区浪花町
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居留地研究の第一人者、神木哲男さん=神戸市中央区浪花町

 歴史をひもとき、11回にわたり紹介してきたこの旧居留地編(神戸市中央区)。取材の過程で、意外と知らないことは多いと気付いた。まだまだ埋もれた史実や逸話はあるらしい。せっかくの機会だ。今回の案内役で、神戸大学名誉教授の神木哲男さんに、もう少し話を聞いてみた。

 -居留地の存在は欧米諸国による主権侵害みたいなもの。一歩間違えれば植民地化される可能性もあったのでは。

 「確かにその通りで、居留地を足がかりに日本を植民地化しようと考えていた国もあったと思う。実際、中国では租界と呼ばれる半植民地化が行われた。神戸の居留地では欧米人の自治組織がうまく機能したが、裏を返せば、日本の領土なのに、日本が関与する余地が少なかったということ」

 -なぜ植民地化を避けられたのか。

 「一つは、居留地に複数の国の人々が共存したことが大きい。特定の国の場所ではなく、互いがライバルでもあったため、奪おうという流れにならなかった。もう一点、想像だが、日本人の文化レベルが高かったため、欧米人は『植民地にできるような国ではない』と考えたのではないか。開港後の日本は、技術を取り入れながら欧米諸国とともに急速に発展を遂げた」

 -居留地と別に設けられた雑居地で異文化交流があったというが、言葉のやりとりはどうしていたのか。

 「中国人が通訳したり、言葉以外でやりとりしたりしたようだが、もう一つ面白い例がある。日本は鎖国中もオランダと交流していたので、蘭学(らんがく)者がいた。だから、英語とオランダ語を話せる欧米人と、日本語とオランダ語を話せる蘭学者の日本人の計2人が間に入り、通訳することもあったようだ。当時の日本ではオランダ語がいわば共通語だった」

 -欧米諸国は、京都や大阪に近い場所の開港を求めた。最初から兵庫と決まっていたのか。

 「実は、中世から近世にかけて良港として栄えた堺も候補に挙がっていた。しかし、18世紀初めに行われた川の付け替えに伴い港湾機能が低下し、奈良の陵墓にも近かったため、堺の開港は断念したようだ。仮定の話だが、もし堺が開港していたら現在のような神戸の発展はなかっただろう」(安福直剛)

=おわり

【バックナンバー】
(11)災害多発の旧生田川 土砂流れ込み外国人苦情
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(8)西洋文化の窓口 港町イメージ、観光に寄与
(7)横浜と神戸 互いを参考に近代化
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(3)海軍操練所跡の碑 開港後は英国領事館に
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