(この連載は、WHOの自殺報道ガイドラインに則り、精神医療の専門家の助言を受けています。記事中、個人名の敬称は省略しました)

 元兵庫県議の竹内英明が亡くなったのは、2025年1月18日。阪神・淡路大震災から30年の節目の翌日だった。

 訃報は、彼をよく知る人たち一人一人の胸に、同じ後悔を残した。

 「救えなかった」

 周囲は今も悲しみの底にいる。

竹内英明元県議の議員バッジと、愛用していた腕時計=姫路市内

 同じ会派の県議として席を並べたことがある川西市長の越田謙治郎は「だってタケウチだぜ」と何度も口にした。

 あの強くて、正しい男。そんなタケウチが憔悴(しょうすい)するほど落ち込むはずがない。どこかでそう思っていたからこそ、変化の兆しを受け止めきれなかった。

 最後に連絡を取ったのは、亡くなる10日ほど前の1月9日だった。

 〈最近どうですか〉

 2人で行ったジンギスカンの店の話を添え、〈また連れてってくださいね〉と送ると、〈そちらも大変ですね。頑張ってください〉と丁寧な返信が返ってきた。

 知事選中に電話をかけたときも、いつものような張りのある声ではなかった。ラインには〈俺は別にやましいことは何もない〉という言葉が残っている。その一文に竹内が込めた思いをもっと正面から受け止めていたら……。越田は悔やみ続けている。

 変化は、周囲のみなが感じていた。

 県職員の一人は、久しぶりに竹内から電話を受けたときの様子が忘れられない。

 自分から電話をかけてきたのに、「私みたいな一民間人の電話を取ってくれてありがとうございます」とぽつりと話した後、言葉が続かない。そして「立花孝志とは格が違う」とつぶやいた。

 同じ会派の県議・上野英一は、竹内が辞職した日、最初に報告を受けた一人だ。控室の応接室で向き合った竹内は顔色が悪く、「家族を守るためです」と繰り返した。

 上野は「とにかく休んで、医師のカウンセリングを受けるべきだ」と促したが、竹内の固い表情は変わらなかった。

 最後の電話は2024年の12月。百条委員会の聞き取りをめぐる事実確認だった。その声は意外なほどしっかりしていて、「思ったより元気そうだ」と感じた。通話の終わりに「飲みに行くならいつでも付き合うよ」と誘うと、竹内は「そんな前向きな気持ちになれません」と静かに答えた。

 最も頻繁に連絡を取っていたのは、後輩県議の迎山志保だった。

 竹内が辞職願を出そうとした日、電話で思いとどまらせようとした。すると、泣きながら「それだけは勘弁してくれ。もう解放してくれ」と懇願された。

 「もともと昔から口調はかなり居丈高なんですよ。それなのに、辞職してからのラインは全部敬語でした」

  亡くなる2日前には、「もうすぐ震災30年だね」とだけ言葉を交わした。

 その直後に届いた訃報。

 迎山は「救えなかった」と泣き崩れた。今でも「ヤツが死ぬなんて、うそでしょう」と感じている。

 やつれていく姿を、ずっとそばで見ていたのは妻だ。

・竹内の変化をずっとそばで見てきた妻は何を感じていたのか。

・夫を失った妻が社会に求めることは。

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