藤原定家の「明月記」、南北朝時代の「祇園社執行日記」など、昔の有馬の様子が多数記録にあります。当時は各宿に温泉はなく、すべての人が現在の「金の湯」の場所にあった湯殿を利用していました。入り口の方向が南側を「一の湯」、北側を「二の湯」と呼び、湯客は貴賤(きせん)なく温泉寺に近い南側の宿に泊まる者は一の湯、北側の宿に泊まる者は二の湯に入るよう決められていました。
それぞれの入り口を入ると4間ほどの脱衣場があり、階段を5、6段下ると同じ4間ほどの浴室がありました。中央に浴槽があり、幅約170センチ、奥行き約220センチ。底は石砂で岩間から温泉が湧き出ていました。
浴槽は板で二つに仕切られ、一の湯と二の湯に分かれていました。入浴客は立ったまま温泉に入るので10人ぐらいが利用できたようです。浴室には水槽が設けられていて、南北それぞれの水源から木製の樋で水が引かれ、頭や口をすすぐのに利用していました。
一の湯の西にある宿を御所といい、足利義満が泊まったからだと言われています。室町時代の僧、瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)が泊まった宿が息殿というのも、義満が小休止を取ったからだと伝わっています。この時すでに、宿では湯治法を書いたものが備えられていたそうで、日本の本格的な湯治も有馬が発祥だと思います。
室町時代に京都・相国寺の高僧が書いた日記「蔭涼軒(いんりょうけん)日録」があります。その中で季瓊真蘂(きけいしんずい)が記した1466年2月からの日記によると、湯治に際して、将軍から摂津守護の細川勝元や守護代の秋庭修理亮(しゅりのすけ)に途中警護の命令が下され、有馬郡主の有馬弥二郎には宿などの手配が命ぜられました。
季瓊は相国寺を出て湯山の御所坊に着きました。その時の御所坊の亭主は掃部という者であったそうです。季瓊が来たというので気を使い、魚売りの呼び声を禁止しました。一方、季瓊は町中が静かなのに不審を抱いて調べ、禁を解いたところ、翌朝からは再び物売りの声で有馬のまちはにぎやかになったといいます。
季瓊は37日間いましたが、当時の有馬の滞在者は多く、ずいぶんにぎわっていたといいます。巫女の鼓舞や田楽徳阿弥の刀玉(かたなだま)、八子太夫(やつこだゆう)の勧進猿楽など湯治客を楽しませる催しも開かれていたそうです。この頃から巫女が湯女(ゆな)と呼ばれる役務を担うようになったと考えられ、湯女は1466年ごろから有馬の歴史に出てきています。(有馬温泉観光協会)