藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を全うす」(右、1945年、東京国立近代美術館蔵、無期限貸与)
 藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を全うす」(右、1945年、東京国立近代美術館蔵、無期限貸与)

 「美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証します」。会場入り口の「ごあいさつ」のパネルにそう書かれていた。東京国立近代美術館が戦時の美術を見つめ、考える展覧会「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」(10月26日まで)を開催している。

 軸となっているのは、戦闘場面を記念碑的に記録し、戦意高揚を図るために制作された「戦争記録画」だ。これに加え「大東亜共栄圏」「五族協和」といったスローガンを視覚的なイメージとして浸透・定着させるために描かれた作品や、前線・銃後の光景を主題とした作品など、広く戦争の時代を反映した作品を集めた。

 さらに、雑誌やポスター、新聞、ラジオといった他のジャンルの動向も示し、戦時の表現活動全体の中で、美術を相対化して捉える回路も開いている。

 戦争記録画を含む戦時の美術が生まれた背景や果たした役割を考えれば、「美術の戦争責任を問う」という見方に収斂しそうになるが、一点一点をゆっくり見つめていると、そうした文脈に収まらないものや、制作の意図を超えるものも浮かび上がってくる。

 例えば、藤田嗣治の描く戦場は、戦争の美化・礼賛を目的に描かれ、当時そのように受け止められた。だが、その画力によって、むしろ戦争の残虐さ、むごさを訴えずにはおかない。芸術の多義性を実感する機会にもなるはずだ。

 ■速報性に欠けるメディア

 東京国立近代美術館は「戦争記録画」を153点収蔵しているという。戦後、米国に接収され、1970年に「無期限貸与」という形で返されたものだ。返還でなく貸与であるという事実には、敗戦が刻印されているといえる。本展はこのうちの二十数点の戦争記録画を中心に、作品・資料総数約280点を8章で構成する。予想以上に大規模で、館の使命感も伝わってくる。

 1930年代からの日本は、新聞、雑誌、ラジオ、映画などのメディアが発達していった時代である。戦況を伝えるという意味では、絵画は速報性に欠け、迫真性の面でも写真や映画をしのぐとはいえない。美術は戦争にどのように寄与したのか。

 1章「絵画は何を伝えたか」で目を引いたのは、宮本三郎「本間、ウエンライト会見図」(1944年)である。説明文によれば、フィリピン・コレヒドール島での戦果を示すため、1942年5月に行われた日本軍と米軍の停戦会見の場面だ。戦争記録画の中では「会見図」と呼ばれるジャンルだが、会見の様子を撮影する報道班員をクローズアップする構図を採る。いわばメタ構造になっているところが面白い。

 2章「アジアへの/からのまなざし」には、伊谷賢蔵「楽土建設」(1940年)と猪熊弦一郎「長江埠の子供達」(1941年)が並ぶ。満州国建国のスローガンは「王道楽土」。前者はそのスローガンを絵にしようとしたのだろう。だが、その意図を裏切るように、現地の人々の表情には明るさがない。

 後者「長江埠の子供達」に描かれる子どもも、こちらに冷たい視線を向けるか、目をそらしている。拒否されているように感じて、ひやりとする。説明文を読むと、伊谷も猪熊も実際に中国大陸の風景や人々を見ていた。だからこそ、現実という足場に引っ張られ、理想郷のイメージを展開することができなかったのだろう。

 田辺至「南京空襲」(1940年)は航空機が地上を爆撃する様子を、航空機のさらに上から見下ろす視点で描く。典型的な空爆のイメージを戦争記録画として定着させた作品だという。だが、空爆される人々へのまなざしは欠如している。説明文も「地上の被害の情景が排除され、空を支配したという優越性が美的に強調されています」と厳しい。

 ■画家の心は浮き立たなかったか

3章「戦場のスペクタル」にあった一点、田村孝之介「佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す」(1944年)は、1942年のガダルカナル島での一場面を描く。これから奇襲攻撃を行おうとする3人の兵士と隊長が別れの盃を交わし、そこに神々しい光が差している。タイトル通り、この3人は生還していない。

 その隣に展示されている鶴田吾郎の「神兵パレンバンに降下す」(1942年)は、スマトラ島パレンバンに陸軍落下傘部隊が降下していく様子を捉える。青空に少し黄色味を帯びた雲が浮かぶ中、隊員をぶら下げた真っ白な落下傘が次々に降りていく構図は、どこか明るくのどかだ。当時でさえ「見るからに楽天的」(「新美術」1943年2月号)と評されたという。

 決死の戦闘場面を描くとき、画家の心は浮き立っていなかったか。4章「神話の生成」で宮本三郎「萬朶(ばんだ)隊比島沖に奮戦す」(1945年)の前に立ち、そんなことを想像してしまった。萬朶隊は日本陸軍初の特攻隊。絵の下半分は海で、上空を戦闘機が飛び、艦船が激しく爆発しているようだ。海面から水煙が吹き上げ、画面手前には手こぎの船で逃れようとする人々もいる。すさまじい迫力だ。

 その横には、特攻機が飛び立つ前の場面を描いた伊原宇三郎「特攻隊内地基地を進発す(一)」(1944年)。飛行場に航空機が並び、それを送る人々はそれぞれ日の丸の小旗を振ったり、帽子を掲げたり、敬礼したりしている。説明文によれば、1944年12月、陸軍特攻隊「殉義隊」が茨城県水戸東飛行場から飛び立つ場面だ。彼らはその後、フィリピン・ミンドロ島付近で特攻作戦を行った。

 ■平和に向けた想像力に繋げたい

 圧巻は4章に置かれた藤田嗣治「アッツ島玉砕」(1943年)と、5章「日常生活の中の戦争」に展示された同じ藤田による「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)だった。

 アッツ島における日本守備隊の全滅は「玉砕」という言葉で美化され、国に殉じることこそが正義であるという認識を浸透させた。藤田の絵は1943年9月の国民総力決戦美術展に出品されて大きな反響を呼んだ。作品の前には賽銭箱が置かれて、藤田がそこに直立不動で立っていたという。

 後者の「サイパン島同胞臣節を全うす」は1944年7月、サイパン島で日本軍が壊滅した後、民間人が次々に崖から身を投げた「バンザイ・クリフ」の情景を描く。追い詰められている人の多くは女性たちのようだ。大半は沖縄県出身者だったという。

 どちらも絵の前で手を合わせたくなるような悲惨な場面を描き、特に後者は宗教画のようでもある。空想画でありながら、圧倒的な画力がリアリティーをもたらし、時代を超えたメッセージを放っている。

 爆撃機のさらに上の視点から空爆を描いた「南京空襲」や、藤田の戦争記録画を見るとき、画家は想像力によってどのような視点も獲得できるし、現実にはあり得ないイメージを構成することも可能なのだと気づく。戦争記録画は大作が多いようだ。大画面は訴求力も強い。戦時におけるさまざまなジャンルとの競い合いの中で、絵画はそうした優位性を生かしていったのだろう。

 展覧会の最後に掲げていた美術館側の文章の一部を記しておきたい。

 「芸術は過去に、人々を戦争へと駆り立てる役割を果たしました。人々の心を動かす芸術の力の両義性を理解したうえで、未来の平和に向けた想像力に繋げていくために、今後も当館が収蔵する戦争記録画をはじめとする作品は貴重な記録として存在し続けるのです」

 美術館の存在意義を感じさせる文章である。(敬称略/田村文・共同通信編集委員)