阪神競馬場北側の宝塚市立高司小学校。五日午後、多目的室に大きな拍手が響いた。集まったのは近くの公園駐車場にできた高司仮設住宅(八十六戸)の四十三戸、約六十人。仮設住宅自治会の誕生だった。
二月六日から入居が始まって約一カ月がたつ。が、住民同士の顔合わせは初めてだ。
五つある棟ごとに分かれ、いすを輪にして座る。まず自己紹介。家を失った気持ちは互いに痛いほど分かる。仮設住宅のこと、子どもの教育のこと…。途切れがちだった会話も徐々に弾み、集会の終わりごろには、親近感が生まれていた。
結成のきっかけは、日本社会福祉士会(本部・東京)のボランティアが配った集会呼び掛けのチラシだった。
社会福祉士は、専門知識を生かし、高齢者や障害者らを援助する。震災ではスタッフが現地に入り、宝塚では連日十数人が、在宅高齢者の安否確認と仮設住宅の生活支援に走り回る。
「私たちは自立を手助けするだけ。自治会をつくる方が行政との交渉もやりやすい。しかしつくるかどうかを決めるのはあくまで住民」と、総合チーフの田村満子さん(二八)。
五千棟の住宅が全半壊した宝塚市は、約二千戸の仮設住宅を計画する。第一陣となった高司など五地区、百五十一戸の入居は、神戸・阪神間で最も早かった。同じ日、ほかの三カ所でも集会が持たれ、すでに活動する一カ所と合わせ、宝塚の仮設住宅第一陣すべてに自治会が発足した。
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神戸市で最初に入居した中央区の脇浜と長田区の若松町で被災者から話を聞いた。多くは、「入居できてありがたい」と話すが、不満や不安はある。
「玄関入り口や、トイレと床に段差があり、おばあちゃんは目が不自由なので使いにくい」
「防音をなんとかしてほしい。隣の電話の音まで響く。声が聞こえる」
「ユニットバスの狭いトイレは、介助が必要な下半身不随の母親は入れない。兄の家に頼んだ」
「体育館よりましだが、夜は寒くよく眠れない。布団は友人からもらった。一年後に出ることを考えると気が重い」
六畳と四畳半に台所の二K。入居中は無料だが、鉄板屋根は、冬は底冷えし、夏は厳しい。こたつを支給した神戸市も、こたつ布団はない。芦屋市は全戸にエアコンを付けるが、ほかは冷暖房自足が原則だ。
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高司仮設住宅には、独居同士が一つ屋根の下で暮らす世帯がある。一人だけの入居を認めていない宝塚市が、入居の組み合わせを決めた。
部屋割りや光熱費の分担をどうするか。狭いところに冷蔵庫も電話も二つずついる。訪ねてくる親類も多い人と少ない人がいる。問題は数多くある。
発足したばかりの自治会はまだ、名簿を持っていない。市でも入居申込者の名前だけしか分からない。
「われわれが仮設住宅の第一期生。これから入居する人のモデルにならなければ」と自治会長の若林莞爾さん(六八)。立ち入ったことは聞きにくいが、少しでも住み良い環境にしていきたい。さしあたってごみ置き場の掃除当番を決めるつもりでいる。
1995/3/11