旦那さんとのツーショット
旦那さんとのツーショット

脊髄性筋萎縮症(SMA)は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と同じく筋力の低下がみられる進行性の病気だが、認知度が低い。

30歳の時にSMAと診断されたMeさん(@megtmr)は、こうした現状を変えたいと思い、自身の日常をSNSで発信している。

■仮死状態で生まれ、「弛緩性麻痺」と診断されて

Meさんは、仮死状態で生まれた。医師からは、「弛緩性麻痺」(※筋肉を動かすことができず、麻痺側の体がダランとしている状態)と診断され、車椅子で生活するように。

小中学校は、設備が整っていないことや何か起きた時に責任が取れないという学校側の判断により、特別支援学校に入学。

高校は普通学校に通えたが、1対1で学ぶ特別支援学校とは違い、大勢のクラスメイトと一緒に過ごすというスクールライフに、最初は戸惑ったという。

だが、Meさんは積極的に持病を説明して友達を作り、楽しく過ごせるスクールライフを確立していく。

時には、友人の荷物を車椅子に載せる代わりに車椅子を押してもらうなど「win-winな助け合い」もしていたそう。自身の努力により、高校生活は楽しいものになっていった。

■努力では問題解決ができなかった大学でのスクールライフ

だが、大学入学後は自力では解決することが難しい壁にぶつかる。進学先の大学には、バリアフリーなトイレやスロープが少なかった。さらに、学生用のエレベーターはいつも込み合っており、Meさんは乗ることができず授業に間に合わないこともあったという。

設備の手薄さは後に学校側が対処してくれたが、ひとりひとりの思いやり不足によって起きるエレベーター問題は解決が難しかった。

「でも、一番ショックだったのは入学して数週間した頃、講義が始まる前に知らない男子学生に指をさされ、見下すようなニュアンスで『車椅子(の人)いるの?』と言われたことです」

社会は、障害者に対してまだそういう反応なのか。Meさんは落ち込み、自分が大学にいることが場違いであるように思えたという。

それでもMeさんは勉学に励み、卒業を目指した。将来は、教育関係か障害者支援関連の仕事に就きたい。そんな夢も抱くようになった大学4年生の頃、予期せぬ事態が。多くの被害を出した、東日本大震災が起きたのだ。

■東日本大震災で日常が一変

仙台市で暮らしていたMeさんは被災。当時は福祉避難所の情報が得られず、Meさんは入籍していた相手と一緒に、1カ月ほど自宅近くの避難所で暮らした。

その後は、県庁付近の避難所へ移動。電気が復旧せず、エレベーターが使えない状況下での生活は、Meさんにとって苦しいものとなった。

コンビニでは買い占めが起き、食事を得ることも難しい日々の中、MeさんはPTSDを発症。栄養失調にもなった。

「また地震が起きたら怖いし、ここで暮らすのは限界だと思い始めた頃、東京の八王子に1年間無料で被災者を受け入れてくれるバリアフリーマンションがあることを知り、夫と引っ越しました」

だが、震災によって刻まれた傷は深く、引っ越し先でMeさんはうつ状態に。加えて、引っ越しから1年後に夫が相談なく契約したバリアフリーではない賃貸へ引っ越したことで、精神状態はより悪化した。

「より家に引きこもるようになりました。3~4年ほどは、家から出られなかった。夫は私をネグレクトし、私や愛犬に暴力を振るうようになりました」

■30歳で進行性の指定難病「SMA」と診断されて

やがて、パニック障害を併発したMeさんは精神科へ。それにより、心は少しずつ回復していったが、2019年、SMAであることが判明する。

きっかけは、新しい車椅子が必要になり、補装具費支給の判定を受けたことだった。

「起床時に起きる激しい頭痛を相談したら、呼吸器疾患の可能性があると言われて紹介先の病院で検査をしたら、SMAだと告げられました」

SMAは発症年齢などによって、1型~Ⅳ型に分類される。Meさんは2型と診断されたが、2型の治療に有効だと言われている治療薬が効かないレアケースだった。

「2型の人は床をはいずることができないそうですが、私はできます。それに、SMAの遺伝子を持っていないのに発症しました。そうした点からしても私のような2型は珍しいようで、日本では1~2人ほどと言われました」

もちろん個人差はあるが、SMAはALSよりも病気がゆっくり進行していくため、当事者は徐々にできないことが増えていき、もどかしさを感じることが多い。だが、Meさんはレアケースな2型であるため、そうした歯がゆさに加えて、自身の今後が予測しづらいという不安も抱くこととなった。

だが、病名を知り、「今」という時間の重みに気づいたからこそ、下せた決断もある。

「死がどんどん近づいてくるような感覚がする中で、入院しても面会に来ず、話すら聞いてくれなかった夫と一緒にいる意味を考えるようになり、離婚を決意しました」

■我が子を持ったSMA当事者のリアルな日常

離婚後、Meさんは重度訪問介護を利用し、毎日24時間、ヘルパーに来てもらうようになった。働くことは難しかったため、障害者年金と障害者手当、生活保護を受けながら、なんとか命を繋いだ。

「福祉の情報は、当事者側が得ようとしないと得られません。私は高校時代からヘルパーさんは利用していましたが、SMAと診断された時に初めて重度訪問介護というサービスがあることを知りました」

その後、Meさんは穏やかな男性と再婚。病気が遺伝する確率は低くなかったが、我が子を持ちたいと思った。

妊娠中は、体に大きな変化が。つわりがひどくて寝て過ごす期間が長かったため、背骨が左右に曲がる「側弯症」が悪化。お腹が大きくなってくると、心臓など内臓の位置が変わった。

息子さんは、妊娠27週目に帝王切開で出産。997gの命を前にした時、Meさんは出産前とは違う想いもこみ上げたという。

「産む前は、もし遺伝したら、私が病気のことを教えていこうと思っていました。ただ、実際に産んでみたら、私は考えが至らなかったなと思った。もし、息子に遺伝していたら私と同じ型になった可能性が高かったから…」

育児は、ヘルパーや旦那さんと協力しながら行っている。その中では、もどかしさを感じる場面も。例えば、泣いている息子さんを抱けない時だ。「できないこと」を痛感し、胸が苦しくなる。

だが、我が子を持つという決断を下したことへの後悔はない。

「障害者が子どもを産むと、ヤングケアラーにさせるのかと非難されることもありますが、私たちは普通の幸せを望んではいけないのでしょうか。私は息子に面倒を見てもらうつもりは一切ありません。息子には自分の生き方を決める権利があるし、自分の幸せを最優先に考えて生きてほしいです」

周囲からの非難で障害者が結婚や恋愛、出産を諦めなくてもいい社会になってほしい。そう思うからこそ、言葉のナイフを向けられてもMeさんは自身の経験を伝えるのだ。

■配偶者に負担がかかりすぎない「結婚生活」を送りたい

障害者が「普通の幸せ」を掴むには、まだまだハードルが高い。福祉サービスの中には、障害者のケアは家族が行うべきという暗黙の認識がある上で成り立っているように感じられるものもある。

例えば、Meさんがもどかしさを感じるのは配偶者の有無で、訪問介護が利用できる時間数が変わることだ。

「市町村による違いもあると思いますが、私の地域では配偶者がいると、訪問介護を利用できるのは毎月587時間ほどです。結婚しているという理由で配偶者に介助を任せるのは相手が潰れる原因にもなるし、ネグレクトを生み出すことにも繋がると感じます」

そう指摘するMeさんはリアルな日常を発信し、SMAの認知度の向上に励む。

「周囲から『SMAって何?』と聞かれないほど、広く知られてほしい。それと、幸せの形は人それぞれであることも伝えたい。苦労する時はあるけれど、私はこの体に生まれて、不幸だとは思っていません」

息子のためにも長く生きたい。そう思い、現在は週2回、訪問リハビリを利用し、筋力が衰えないようにしている。

「私は片方の肺が縮んでいるので、これ以上、機能が衰えないよう、機械で肺に空気を送り込んで咳をするリハビリも受けています」

治療薬が効かない中、今できることに全力投球するMeさん。彼女はSMAを知ることが、認知度が低い他の病気を知るきっかけにもなってほしいと話す。

「いつか自分がいなくなった後、我が子に自分の記事を見せたいから、こうして残してほしいんです」

そんなMeさんの言葉に触れると、他者の人生の受け止め方を見つめ直したくなる。誰かの日常が簡単に垣間見ることができる今、私たちに必要なのは自分の価値観を「正論」という形に変えて誰かに押し付けず、当事者が悩んで掴んだ幸せの形を尊重する寛容さなのかもしれない。

(まいどなニュース特約・古川 諭香)