災害ボランティアとは、ジャズである。いわく、目の前の被災者のために何が大切かを考え、臨機応変に動く。その躍動感はまるでジャズの即興演奏のようだ、と。
阪神・淡路大震災は「ボランティア元年」と呼ばれる。以降、各地で災害が起これば全国から人々が駆けつけ、支援をする光景が当たり前になった。あの日から30年。災害ボランティアの歩みをたどるため、まずは発災前夜に時間を戻す。
何かしたい人が殺到 指示を待つ時間長く
満月が輝いていた。
1995年1月16日深夜。神戸大学の助教授になったばかりの渥美公秀(63)=当時33歳=は、初めての教え子が修士論文の提出を翌日に控え、遅くまで大学に残って指導していた。日付が変わる頃にはめどが付き、安堵(あんど)とともに西宮市にある官舎に帰った数時間後、激震に襲われた。
妻と幼い2人の娘は無事だった。車で大学に向かったが、渋滞で動かない。自宅に引き返し自転車で飛び出すと、道路に散乱したガラスですぐにパンクした。歩いて向かう道すがら、倒壊した家で救出作業が行われていた。路上で号泣している男性がいた。毛布に包まれて横たわる人がいた。
大学に着いて教え子の無事を確認した後、家族と大阪の実家に避難した。東へ行けば行くほど被害のない日常が広がる。妙に悔しくて、涙がこぼれた。
実家にいると恩師から電話があり、研究者として何ができるかを話し合うため京都大学に集まった。「研究よりも救援が必要です」。被災地を目の当たりにした渥美は言い、西宮に戻った。
災害ボランティアという概念がない時代だった。とりあえず市役所に行くと、何かしたい人たちが殺到して混乱のさなかにあった。救援物資の搬入の手伝いなどその場その場の仕事はあったが、指示を待つ時間のほうが長かった。だから「泊まり込める人は避難所を手伝ってください」との呼びかけに、即応した。
安井小学校の保健室に寝泊まりし、風呂焚(た)き役を担った。ブロックの上にドラム缶を置いて沸かした湯を、バケツリレーで運んでユニットバスを満たす。薪(まき)は倒壊した家に行き、チェーンソーで柱を切って調達した。がれきの下に押しつぶされた三輪車や新生児用の服を見た時は思わず目をつぶったが、立ちすくむわけにはいかなかった。
避難所の運営は地域の体育振興会が中心となって行い、ボランティアたちは黄色のタスキを身に着けた。それぞれの役割分担も決め、夜間の見回り役は「火盗改(かとうあらため)」、ルールを守らない人を注意するグループは「新撰組」と名付けるなど、少しでも明るい雰囲気を醸し出そうと努めた。
マニュアルなんてない。多くの人にとって初めての経験だった。
その頃、西宮市役所でも災害ボランティア文化の萌芽があった。発災当初こそばらばらに動いていた団体が、行政も交えた連携の模索を始めた。
そして2月1日、西宮ボランティアネットワーク(NVN)を結成。市内で活動するボランティアと西宮市のパイプ役として、情報・物資・人員の調整を担った。市が持つ情報を団体や個人へ伝え、現場からの最新情報も市へフィードバックした。救援物資の差配やボランティアの受付などをNVNが担い、責任は市が持った。
ボランティアができることはボランティアに任せ、行政は自分たちの業務に専念する。この取り組みは「西宮方式」と呼ばれ、注目を集めた。渥美は避難所での風呂焚きを終えた後、NVNに参加。ジャズのような躍動感に魅せられ、災害ボランティアの研究がライフワークとなる。
「官」の管理、組織化はボランティアを殺す
阪神・淡路ではボランティアが1年間で延べ137万人集まったとされる。全国から被災地に駆けつける一方、各自治体がその窓口を担おうとしてさばききれないケースがいくつもあった。
巨大災害では自治体職員の多くも被災しており、マンパワーが圧倒的に不足する。行政の「公平性」の原則が枷(かせ)にもなる。NVN以降の活動に参加を続ける元尼崎市総合政策局部長の檜垣龍樹(63)は1996年5月、経験を踏まえて論文にこう書いた。
「非常時にあっても公平性が求められる行政-少なくとも行政側はそう信じている-の不得手とする領域を、ボランティアは自由な発想により質的にもカバーしていたのではなかっただろうか。(中略)すなわち、今後の行政には、すべてを仕切ろうとする発想から、時として信頼できるパートナーに任すという視点を備えるべきとの提言である」
同年1月11日の神戸新聞の社説にはこうある。
「行政とボランティアの連携は必要だ。しかしその基本は、市民の自発的な参加と活動を促す環境づくりにある。そしてその運営は行政主導でなく、民間の自主運営とするという方向だ。ボランティアの基本は自立と自律であり、支援は受けても、指導は受けない点にある。(中略)『官』の管理や組織化はボランティアを確実に殺す」
阪神・淡路を起点に、新潟県中越地震や東日本大震災、熊本地震など各地で災害が起こるたび、さまざまな団体が被災地で活動してきた。NVNは日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)と名称を変え、理事長を務める渥美も各地を飛び回っている。
この間、制度や仕組みは整備されてきた。一方で渥美は懸念を口にする。「ボランティアに秩序を求め、自由を奪うような流れが強まっている」
昨年1月1日に起きた能登半島地震では、二次災害の懸念などから馳浩・石川県知事が自粛を呼びかけた。交流サイト(SNS)では「野良ボランティア」という言葉も生まれ、被災地に行った人を徹底的にたたく風潮があった。
災害ボランティアはどのように変遷してきたのか。NVNADの30年を通じて、今を探る。=敬称略
(土井秀人、池田大介)