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白い防音パネルで覆われ、解体工事が進む「ヤマトヤシキ姫路店」=姫路市二階町(撮影・大山伸一郎)
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白い防音パネルで覆われ、解体工事が進む「ヤマトヤシキ姫路店」=姫路市二階町(撮影・大山伸一郎)
市民に惜しまれつつ閉店したヤマトヤシキ姫路店(2018年撮影)
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市民に惜しまれつつ閉店したヤマトヤシキ姫路店(2018年撮影)
昭和30年代の「やまとやしき」(米田徳夫さん提供)
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昭和30年代の「やまとやしき」(米田徳夫さん提供)

 建物全体が白い防音パネルに覆われ、時折、工事車両が出入りする。赤地に白抜きで「ヤマトヤシキ」と記されたシンボルの看板が見えなくなってから7カ月。2018年2月末で111年の歴史を閉じた老舗百貨店ヤマトヤシキ姫路店(兵庫県姫路市二階町)では、着々と解体工事が進んでいる。1990年代以降は郊外型の大型店に押されて苦戦が続いたが、実は起死回生の秘策が練られていたという。その計画とは?

    ◇    ◆

 姫路店の前身は1906年に開業した「米田まけん堂」。屋号は値引きしないという意味で、当時としては珍しい輸入雑貨を扱って繁盛した。しかし、45年7月の姫路空襲で焦土と化した。

 再起の動きは早かった。周辺の地権者の協力で敷地を広げ、木造2階建ての集合店舗を完成。店を焼かれた人たちが次々に入居した。店名は「やまとやしき」に変え、播磨初の百貨店として再出発した。

 51年には4階建てに改築。さらに57年には、当時は播州一の高さ43メートル、8階(一部12階)建ての店舗が完成する。「姫路に行く」といえば、同店へ買い物に行くことを指すほど地元に愛された。

 56年に入社した元役員、小松利仁(としひと)さん(87)=姫路市玉手=は「姫路の皆さまに育ててもらった。愛着を持っていただいているお客さまが多かった」と懐かしむ。

    ◇    ◆

 72年にロゴマークを刷新し、屋号を「ヤマトヤシキ」に変更した後も好調は続く。だが、バブル崩壊後、経営環境は次第に厳しさを増した。

 創業家の元会長米田徳夫さん(78)は「姫路駅前への出店を狙っていた」と明かした。秘策とは駅前進出だったようだ。「地方の百貨店が生き残るには、それしか道はなかったんですよ」

 75年に3代目社長に就任した頃から、駅前への進出計画を温めていたという。「百貨店はまず立地。交通の結節点であるターミナルに建てないと、長続きしないことは自明だった」と振り返る。

 駅前には既にライバルの山陽百貨店が構え、駅から約500メートル離れた姫路店は大きなハンディを負っていた。業界関係者に出店構想を打ち明けたこともあったが、「地域の1番店になれるのか」と反対された。結局、日の目を見ることはなかったという。

 90年代は規制緩和でショッピングセンターが郊外に次々と進出し、中心市街地の空洞化が問題になる。さらに2008年のリーマン・ショックが追い打ちをかけた。

 米田さんはマンションやホテルへの事業転換を模索したが、東京五輪を前にした建設費高騰で断念。悲願の土地だった駅前には13年、駅直結の商業施設「ピオレ姫路」がオープンした。会長だった15年、投資ファンドに事業再生を託して退いた。

 姫路店はその後も、売り場のリニューアルなどで存続を模索したが断念。土地は近鉄不動産(大阪市)などが購入し、再整備する見込みだが、具体像は明らかになっていない。

 戦後復興の核となった「ヤマトヤシキ」の社名には「多くの商店が仲良く(=大和)、ひとつ屋根の下(=屋敷)で商売を」との願いが込められている。その理念が、姫路ターミナルの発展を支えていく。(井上 駿)

=おわり=

【ヤマトヤシキ】1906年、初代の米田徳次が姫路市二階町に洋品雑貨店「米田まけん堂」として創業した。姫路店の建物は名建築家村野藤吾の設計で、57年に完成。その後、増築を繰り返した。2014年、事業を続けながら経営再建を目指す「事業再生ADR」を申請し、15年、創業家の米田徳夫会長らが退任。18年2月に閉店した。JR加古川駅前の加古川店は「加古川ヤマトヤシキ」として営業している。

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