行基・仁西両上人をしのぶ「御祖師まつり」の様子
行基・仁西両上人をしのぶ「御祖師まつり」の様子

 今年は元日に能登半島地震が起こり、夏休みのまっただ中に宮崎県沖で地震が起きました。変動帯に住むわれわれは、温泉や自然景観の恵みがある一方、いつ地震が起こるかもわからない状態に置かれています。専門家は、今地震が起きたらどのように避難するかということを常に考えておくことが重要だと言います。

 有馬温泉の下にはフィリピン海プレートが沈み込んでおり、有馬は約400年のサイクルで大きな地震に見舞われています。最近は阪神・淡路大震災。その約400年前の1596年には慶長伏見の大震災が起こり、豊臣秀吉が復興してくれました。

 さらにその約400年前の1185年に文治大地震が起こっています。これを復興したのが、前回お話した仁西上人ではないかと言われています。改めて有馬温泉史を調べてみると、文治大地震が起こった翌年の8月26日に、「蔵人(くろうど)頭(のとう)右中弁源兼忠、病により有間に湯治す」という記録があります。

 蔵人頭は天皇の首席秘書という役割です。その人が病気を治すため有馬にやってきました。ここからはいつもの想像ですが、兼忠は有馬から戻り、後白河法皇に薬効の優れた有馬を復興するべきだと進言したのではないでしょうか。そして法皇は、愛妻の滋子と行ったことがある有馬の復興プロジェクトを許可したと思うのです。

 ただ、京都も地震からの復興で大変だったと思います。「源平盛衰記」では、高野山で出家した平維盛(これもり)が後白河法皇のもとを訪れたと記載されています。後白河法皇は、宮廷で美貌の貴公子として人気のあった維盛をリーダーにすれば、熊野の木地師や白拍子も協力するだろうと考え、出家した維盛を仁西に仕立てて他の平家の落人や木地師、白拍子の頭に任命し、有馬の復興を託したのではないでしょうか?

 維盛は一ノ谷の戦い前後から平家の陣中から逃亡し、正式な死亡日と死因は不明です。しかし、仁西の故郷とされる奈良県十津川村に平維盛の墓所が残っています。そして、有馬の様子が詳細に書かれた最初の文献である藤原定家の「明月記」には、1208年10月5日に定家が有馬に来たとき、湯口屋に故平大納言維盛卿の妻が泊まっていたと記載されています。

 これらのことから維盛が仁西で、文治大地震からの復興の立役者だと想像するのです。(有馬温泉観光協会)