自宅近くの富島地区。崩れた家があちこちにあった=1995年1月、旧北淡町富島(淡路市富島)
自宅近くの富島地区。崩れた家があちこちにあった=1995年1月、旧北淡町富島(淡路市富島)

 6434人が犠牲になった阪神・淡路大震災から来年1月17日で31年になります。一人一人の経験を伝えることで、次の災害への備えや命の重みを考えてもらうきっかけにできないだろうか。世代を超えて教訓をつなぎたい。私たちはそう願って、皆さんからあの日の記憶を募りました。まずは、当時小学生だった担当記者2人の体験を紹介します。

■あの揺れにまた襲われるのが怖くて…

 淡路島北部の旧北淡町(淡路市)に住む小学6年生でした。両親と祖母、5歳離れた姉との5人暮らし。姉と同じ部屋のベッドで眠っていました。

 突然、見ていた夢が渦を巻くように回りだし、はっと目が覚めました。その途端に、ドーン。地響きとともに家ごと揺さぶられました。地震とは分かりませんでした。真っ暗闇の中で、鍵を掛けていた窓が勝手に開いていき、雷に打たれているようなバリバリという音が聞こえました。

 一瞬、揺れが収まったとき、隣の部屋の父が私の名前を叫びました。その声と同時にまた「ドーン」。激しい揺れが続きました。

 北淡町は震度7を記録。家は瓦屋根が落ちて、半壊の認定を受けました。食器や水槽が割れて足の踏み場がありませんでしたが、家族はみんな無事でした。避難はせず、1週間ほどは5人が同じ部屋に集まって余震をしのぎました。

 父は、家から5キロ北に位置する富島(としま)小学校(現在は北淡小学校へ統合)の教員でした。淡路島で最も被害が集中し、建物の8割が全半壊、26人が犠牲になった淡路市富島にあります。この小学校では児童2人が亡くなりました。避難所になった学校での対応に追われ、父はほとんど家にいなかったことを覚えています。

 余震が減って、少し落ち着きを取り戻したころ。私は夜寝る前に両親や祖母の部屋を回り、「おやすみ」と言ってから布団に入るのが日課になりました。毎晩、家族の無事を確認していました。夜が明けるといなくなっているんじゃないか。そんな不安があったように思います。

 声かけは中学生になってもしばらく続けていました。あの揺れにまた、襲われるのが怖かったのです。(上田勇紀)

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 震災の体験を募っています。報道部までメール(houdou@kobe-np.co.jp)でお寄せください。