神戸

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山上を流れる生田川。前田康男さんは物々交換の「市」がこの辺りの河原で開かれたと推測する=神戸市中央区葺合町山郡
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山上を流れる生田川。前田康男さんは物々交換の「市」がこの辺りの河原で開かれたと推測する=神戸市中央区葺合町山郡
江戸後期の絵図。生田川沿いに布引周辺を通る山越えの道があったと分かる(西宮市所蔵「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」より。赤線は筆者が加筆)
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江戸後期の絵図。生田川沿いに布引周辺を通る山越えの道があったと分かる(西宮市所蔵「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」より。赤線は筆者が加筆)

 南からやって来た行商人は海で捕れた魚を持って、北からの人たちは農作物をかついで-。

 両者が合流し、物々交換の市(いち)が開かれた山上の原っぱ。ここがやがて「市ケ原」と呼ばれるようになった。住所表示は神戸市中央区葺合町山郡(やまごおり)である。

 新神戸駅から布引の滝や布引貯水池を経て、さらに登山道を歩いて行くと、勾配が突然緩やかになり、ほぼ平らになる。そばには川が流れている。「ここは本当に山の中だろうか」といった錯覚に陥るが、標高は240メートルほどある。

 「今はハイキングコースになっていますが、ここは山を越える古道でね。『布引越』『布引道』などと呼ばれました。今の新神戸駅周辺と北区山田町の中間あたりになるんですよ」

 一緒に歩きながら教えてくれたのは、六甲歴史散歩会代表の前田康男さんだ。いわゆる表六甲と裏六甲の中間に位置し、ほぼ平らになっている市ケ原。市を開いて人々が交流したというのもうなずける。

 そばを流れている川は、生田川の上流だ。この水が貯水池にたまり、滝となって注ぎ、神戸の都心部を貫く。河原では、テントを張ってキャンプをしている人の姿もあった。

 物々交換は少なくとも江戸時代には行われており、明治初頭まで続いたようだ。さらに、この道は灘五郷の酒を造るため、北播磨などで収穫された米を運ぶ道として使われたらしい。

 「運ばれた米は、平地の川沿いに並ぶ水車で精米されました。山を越えて良い酒がつくられたんですよ」

 俳句の大家与謝蕪村は18世紀後半、布引の滝を訪れた。下山後、険しい「布引越」を運ばれてきた米が、水車を利用してつかれている様子を目にした。こんな句が残る。

 “舂(うすづく)や 穂麦が中の 水車”

【バックナンバー】
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