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兵庫県公館県政資料館に飾られている伊藤博文の写真=神戸市中央区下山手通4        
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兵庫県公館県政資料館に飾られている伊藤博文の写真=神戸市中央区下山手通4        
伊藤の銅像があった台座。戦時の金属供出で像はなくなった=神戸市中央区楠町7
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伊藤の銅像があった台座。戦時の金属供出で像はなくなった=神戸市中央区楠町7
旧居留地に残る「伊藤」を冠した地名=神戸市中央区伊藤町
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旧居留地に残る「伊藤」を冠した地名=神戸市中央区伊藤町

銅像跡や地名…各地に足跡

 伊藤博文。1841年生まれ。身長160センチ前後(諸説あり)。長州藩の元下級武士。かつて湊川神社や大倉山に銅像があった。行動力があるが、せっかちなのが玉にきず。女好き。

 兵庫津(ひょうごのつ)の取材をするたびに名前が出てくるこのお方。ずっと気になっていたのだが、兵庫県に何の縁もなさそうなのに、なぜ初代県知事となって今はなき県庁の執務室に座ることになったのか。

 「(前回紹介した)神戸事件に関わったことが大きいですね」と話すのは、県立兵庫津ミュージアムの多賀茂治学芸員だ。

 神戸事件は1868年1月11日(旧暦、以下同)に起きた。翌12日、伊藤は呼ばれてもいないのに、船で兵庫に上陸。事件解決へ奔走し始める。

 「事件翌日に来たのは、おそらく偶然です。一つ気になるとしたら、実はこの直前にも伊藤は兵庫に来ているんですよ」

 事件の約1カ月前、長崎で武器調達に携わっていた伊藤は突然、兵庫にやって来て長州藩の関係者と会った。しかし「君がやるべき仕事はここにはない」と追い返されたという。

 「当時の長州藩はいよいよ幕府と戦う準備が整っていました。自らも戦いに参加したかったようです」

 多賀さんは苦笑する。行動力があるというのか、せっかちなのか。人間味あふれる伊藤の振る舞いに親近感を覚えるが、実はこの性格がやがて奏功する。

 幕府と新政府軍が激突した同年1月初頭の鳥羽・伏見の戦い。伊藤はおそらくこの戦いが気になり、戦場(京都)に近い兵庫に再び来た。しかし到着したときは既に終戦。たまたま神戸事件を聞きつける。

 事件から2日後の13日。新政府の役人でもないのに、激怒している英国公使パークスと会い「3日以内に話をまとめる」と断言。すぐに大阪にいた新政府の役人に会って開国和親(国を開いて外国と交流する)の方針を示すよう訴え、そのまま外国担当として抜てきされた。

 「もちろん留学経験があったことも大きいです。しかし、交渉力や行動力が買われたのでしょう」。多賀さんは分析する。

 そして伊藤は、日本と欧米諸国との間に入って事件解決に向けた会談を成功させ、神戸の居留地整備に従事。兵庫と深く関わるようになったのだ。

 ただ、伊藤が赴任した初代県庁は兵庫津にあり、元町の居留地とは離れていた。そのためなのか、大好きな花街だったからか、伊藤は現在の花隈に仮の住居を設けた。さらに、花隈から近く、大倉財閥の祖である大倉喜八郎が構えた別荘もよく利用していたという。

 この別荘があった場所こそが現在の大倉山公園(中央区楠町7)で、かつて伊藤の銅像が立っていた。旧居留地には「伊藤町」の名が残る。神戸事件の瀧(たき)善三郎もそうだが、他地域の偉人たちの足跡が神戸のそこかしこに残っている。

   ◇

 県立兵庫津ミュージアムでは、こうした神戸事件や伊藤博文を題材にしたショートムービーを公開している。

【バックナンバー】
(10)瀧善三郎碑 神戸事件の責任とり切腹
(9)初代県庁 明治政府、城跡利用し統治
(8)二つの惣門跡 城下町守る強固な城門
(7)西国街道 まちの繁栄物語る回り道
(番外編)市章は「カウベ」の「カ」?
(6)幻の兵庫城 天下人の夢の跡、発見
(5)軍事色強い城下町 寺院は町の防御役
(4)室町幕府の日明貿易拠点 義満は兵庫が大好き
(3)平安の「山、海へ行く」、5万人動員し人工島築く
(2)港都神戸の原点 著名人の先祖ずらり
(1)神戸市章 二つの弧は二つの港?
【アーカイブ】
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