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復元された竪穴住居前で、60年前の様子を振り返る浅原重利さん=播磨町大中1
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復元された竪穴住居前で、60年前の様子を振り返る浅原重利さん=播磨町大中1
出土した大量の土器(1963年、播磨町提供)
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出土した大量の土器(1963年、播磨町提供)
上空から見た発掘調査が始まる前の大中遺跡(1962年、播磨町提供)
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上空から見た発掘調査が始まる前の大中遺跡(1962年、播磨町提供)
住宅街の中に広がる大中遺跡公園(県立考古博物館提供)
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住宅街の中に広がる大中遺跡公園(県立考古博物館提供)
神戸新聞NEXT
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 古代のかやぶきの竪穴住居7棟が再現された国史跡「大中遺跡」(兵庫県播磨町大中1)が発見されて、今年で60年となる。畑と工場用地だった場所に県内有数の遺跡があると分かったきっかけは、1962(昭和37)年、幼なじみの地元の中学3年生3人が土器を発見したことだった。発見者の一人、浅原重利さん(74)=神戸市垂水区=は、「土器を取り出した感触が今も忘れられない」と振り返る。(門田晋一)

 浅原さんは幼い頃、「月の輪古墳」(岡山県)の発掘風景などを紹介する記録映画を見て、考古学に魅了された。他の2人と休みのたびに自転車にまたがり、東播地域などの遺跡を巡った。当時の阿閇(あえ)村(現播磨町)では大きな遺跡は確認されておらず、浅原さんは「明石と加古川には遺跡がある。その間の播磨町にもあるはず」と考えたという。

 中学3年の時、地域の長老が興味深い話を教えてくれた。大正時代、別府鉄道(1984年廃線)の線路が敷かれた際、大量のたこつぼが掘り出された-というもの。「土器かもしれない」。気になった3人はブルドーザーが整地した工場用地を見に行くと、大小の土器のかけらが無数に転がっていた。それから毎日、ダンボール箱いっぱいに土器のかけらを持ち帰って復元にも挑み、3人だけの秘密の遊びを楽しんだ。

 ただその後、「あまりの量の多さに気軽に触っていいのかと少し怖くなった」という浅原さん。加古川西高校の教員に見てもらい、弥生土器だと判明。新聞やテレビの取材も相次ぎ、3人は一躍時の人になった。

 同遺跡は弥生時代終わり(1世紀末から2世紀)から古墳時代初頭(4世紀ごろ)の集落で、1962年に始まった発掘調査は、2016年までに計24回行われた。同遺跡に隣接し、同じ集落だったと考えられる加古川市平岡町山之上の「山之上遺跡」と合わせると、広さは約8万平方メートルにも及ぶ。うち約2万平方メートルを中心に調査し、140以上の竪穴住居跡のほか、数万点の土器、中国から持ち込まれたとみられる割れた鏡も見つかった。

 調査時期に応じて地点ごとに番号が振られたが、当時3人が土器を見つけた地点は特別な場所として、アルファベットの「Z」と名付けられた。

 発見直後から、発掘に加わったり保存活動に参加したりしてきた浅原さん。同遺跡近くで歯科医院を営みながら、関わりは今も続く。遺跡に隣接する播磨町郷土資料館の展示プランを考え、県立考古博物館の誘致に力を尽くした。同遺跡で古代体験できるイベント「大中遺跡まつり」も立ち上げた。現在は同町文化財保護審議会長でもある。

 「大中遺跡の防人(さきもり)であり、語り部です」と笑う浅原さん。60年を迎えたことについて「自分の人生を豊かにしてくれた文化財施設であり、町の大事な観光資源。地域社会のためにどう活用するか、それが今後の課題やね」

     ◇     ◇

■「なぜこの場所に」…近くの河川氾濫、高台に移り繁栄か/県立考古博物館に聞く

 60年前に発見された国史跡「大中遺跡」。なぜこの場所で発展し、消えていったのか。また考古学の世界にどんな影響を与えたのか。県立考古博物館(同町大中1)の池田征弘学芸課長と学芸員の藤原怜史さんに聞いた。

 「弥生時代にあった川の氾濫で、東播磨地域の集落の勢力図が変わりました」と藤原さん。弥生時代中期(紀元前2世紀ごろから1世紀ごろ)、東側の明石川流域と西側の加古川流域に集落が点在。一方、この中間地点の播磨町周辺には、大規模な集落はなかったようだ。だがこの時期の終わりごろ、明石川が氾濫し、近くの集落が被害を受けた。弥生人は高台を目指し、同時代の終わり(1世紀末から2世紀)には、小高い場所にある大中遺跡が発展していった。

 発掘調査で、弥生時代終わりから古墳時代初頭にかけての無数の土器やかけらのほか、多くの住居が見つかった。各時代にこの地域で流行した土器の形や、暮らしの変化が分かる基準とされ、その後の研究に生かされた。遺跡の規模が大きく、出土品には大陸との関係を示す中国の後漢時代に作られた鏡の一部も含まれていたため、1967年には学術的な価値が認められ国史跡にもなった。

 しかし82年、縄文時代の終わり-中世の集落跡・玉津田中遺跡(神戸市西区)の調査が始まり、90年代に調査報告書がまとまると、大中遺跡の立場は一変した。玉津田中の土器は、大中よりも状態が良かったため、大中の「基準」としての役割のほとんどを、玉津田中が担うことに。ただ玉津田中は明石川に近く、弥生時代中期終わりごろに氾濫によって衰退。このため弥生時代後期の土器は今も大中が基準で、池田課長は「大中遺跡は古豪のような存在」と例える。

 そんな大中遺跡も、古墳時代には廃れた。藤原さんは「場所が時代に合わなくなった」と指摘する。古墳時代、同地域の有力者は、生産性の高さや流通の利便性などから、住まいを河川周辺の平野に集中させたが、同遺跡周辺に大きな川はなく見放されたという。

 同遺跡発見後の播磨町の60年を振り返ると、神戸や姫路へのアクセスの良さなどから、約9千人だった人口は、90年には3万人を突破した。池田課長は「古墳時代はさておき、播磨町の住みやすさは弥生人もお墨付きですからね」と笑った。

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