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上谷昭夫さん
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上谷昭夫さん
上谷昭夫さん(左)と弟の泰司ちゃん=1945(昭和20)年
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上谷昭夫さん(左)と弟の泰司ちゃん=1945(昭和20)年

■兵庫県高砂市 上谷昭夫さん(82)

 注射を打っても、2歳の弟のひきつけは治まりませんでした。目を見開いたまま、だんだん動きが弱くなって…。しばらくして、動かなくなりました。

 6歳下の泰司(やすし)は、1946(昭和21)年5月、加古郡荒井村(現高砂市)の家で亡くなりました。

 1年前から、原因不明の病で寝込んでいました。戦時下で食糧が不足し、栄養状態が悪かったのが影響したのかもしれません。薬もなく、往診にも来てくれませんでした。

 既に1歳上の姉と3歳下の弟を病気で亡くしており、両親は余計に心配していたのですが…。

 病床の泰司は、夏でも布団をかぶって寒さに震え、食べてもすぐに戻してしまう状態でした。次第に痩せ細り、衰弱していきました。

 姫路空襲があった45(同20)年7月3日は、真夜中に泰司を背負った母と加古川の堤防まで逃げました。西の空が真っ赤に染まっていました。落ちていく焼夷(しょうい)弾が空中で開き、花火のようだったことを覚えています。

 戦争がなければ、食べ物も薬もあり、助かっていたかもしれません。泰司が亡くなった日、涙など見せたことのない気丈な父が、泣いていたのが印象に残っています。

 7人きょうだいですが、終戦までに生まれた4人のうち、私以外の3人が幼くして亡くなりました。

     ◇

 勤務先が旧日本海軍の鶉野(うずらの)飛行場跡(同県加西市)に近かった縁で、1993年から姫路海軍航空隊など特攻隊について本格的に調べています。

 94年、東京の防衛庁(現防衛省)図書館で資料を探していた時、特攻で兄を失った男性に出会いました。

 男性の母親は、当初、わが子が亡くなったという知らせを信じなかったそうです。しかし戦死の公報が届くと、普段は物静かな母親が取り乱し、納戸に入って声を上げて泣いていたことを教えてくれました。

 特攻で亡くなった人の遺書は、幾つも見つかりました。「お父さん、お母さん さようなら」「私の突っ込む時は 必ずお父さんお母さんとさけんで突っ込みます」など、家族への思いをつづっているものが多いんです。家族のことを、ここまで思っていたのかと心を動かされます。

 戦争が起きれば、戦地に向かった者だけでなく、残された家族が苦しい目に遭う。わが子を亡くした親たちは、どれほど悲しい思いをしたのでしょう。

 鶉野飛行場の歴史を掘り起こしていくにつれ、記録を残したいという気持ちが強くなりました。戦争の記憶を、後世に伝えていきたいと思っています。もう二度と、つらい思いを抱える家族を生まないために。(聞き手・斉藤正志)

【うえたに・あきお】1938(昭和13)年、京都市右京区生まれ。父の仕事の関係で、2歳で加古郡荒井村(現高砂市)に移り住んだ。高卒後は上水道設備建設会社に勤務。現在、「鶉野平和祈念の碑苑保存会」理事、「加古川飛行場を記録する会」会長を務める。

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