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米軍の空襲から逃げ惑った体験を語る戸田壮介さん=加古川市加古川町北在家、神戸新聞東播支社
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米軍の空襲から逃げ惑った体験を語る戸田壮介さん=加古川市加古川町北在家、神戸新聞東播支社
空襲を受けた明石公園周辺=1945年(「明石の空襲-『米国戦略爆撃調査団報告書』から-」より)
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空襲を受けた明石公園周辺=1945年(「明石の空襲-『米国戦略爆撃調査団報告書』から-」より)

 ロシアによるウクライナ侵攻の映像が、77年前の記憶をよみがえらせる。兵庫県稲美町の戸田壮介さん(84)は1945(昭和20)年、疎開先の同県明石市で空襲に遭い、姉、伯母、祖父を亡くした。耳に響く爆音、米軍機が去った後の静寂、見せてもらえなかった姉の遺体-。今も脳裏に焼き付いている。「戦争は全てを奪う。どうしてまた同じことをするのか」。15日の終戦の日を前に、憤りを口にする。(斉藤正志)

 戸田さんは神戸市兵庫区生まれで、45年には生田区(現中央区)に住んでいた。

 7歳だった45年3月ごろから、頻繁に米軍機飛来による警戒警報や空襲警報が出るようになった。学校では、校庭で伏せる練習をさせられ、授業の途中でも警戒警報が出れば集団で帰宅した。

 真夜中の空襲警報で、雪が降る中を避難したこともあった。遠くの空で、地上からのサーチライトに照らされた米軍機が見えた。

 3月17日の大規模な空襲をはじめ神戸は大きな被害を受けた。戸田さん宅の周辺は爆撃などを受けていなかったが父は明石の親戚宅への縁故疎開を決意した。

 「田舎の暮らしは楽しそう」。戸田さんは幼心にそう思った。

■倒れた姉

 6月初旬、姉愛子さん=当時(17)=や父、兄、弟の家族5人で、明石公園近くの親戚宅に身を寄せた。

 同月9日午前、戸田さんが自宅にいた時、空襲警報が鳴り、家族と親戚の8人で走って明石公園へ逃げた。神戸で大きな空襲を体験しなかった戸田さんは、怖さを感じなかった。

 公園にいると、ごう音とともに、西の空から黒い雲がわき上がるように、米軍の編隊が見えた。低空で飛ぶ米軍機が、あっという間に近づいてきて、陽光を遮って周囲が暗くなった。

 戸田さんは走って逃げ、伏せた。「ドドン」という爆音が何度も響く。収まったと思って顔を上げると、爆音がして、また伏せた。

 しばらくして起き上がると、公園内は静まりかえり、土煙が舞っていた。爆風で木が折れ、景色が一変していた。何かが焼ける臭いがした。

 少し先で、親戚が集まっていた。姉が倒れていたが、近くでは見せてもらえなかった。爆弾の破片が当たったのか、亡くなったと聞いた。

 伯母は、木に寄り掛かるようにして息絶えていた。

 歩いて自宅に帰る道すがら、黒く焦げた遺体がいくつも並んでいた。

 この日の明石への空襲による死者は、644人に上り、うち明石公園だけで269人が犠牲になった。

■まちが炎上

 それから何度も空襲に遭った。

 6月22日には親戚宅の庭に掘った防空壕(ごう)に逃げた。木製のふたを閉め、密閉された空間だったが、爆音がするたびに、「ザー」と音を立てて壁の土が落ちた。

 7月7日未明には、前日深夜の空襲警報を受けて、近所の人らとともに、路地を縫うように走って逃げた。音や光で、焼夷(しょうい)弾が落ちているのが分かった。

 「警察署へ逃げろ」。誰かが叫んだ。戸田さんは父に手を引かれ、当時の明石警察署に逃げ込んだ。

 戸田さんは階段の踊り場で、うずくまっていた。窓の外は、まちが燃える炎で、真っ赤に染まっていた。

 夜が明けて外に出ると、焼け野原になっていた。まだ、ぶすぶすと燃える音と建物が焼ける臭いがした。道端には、焼夷弾が突き刺さっていた。

 親戚宅は焼け、ほとんど何も残っていなかった。逃げずに防空壕に残った祖父は、焼け死んでいた。

    ■

 戸田さんは今でも、飛行機が飛ぶ大きな音を聞くと体がこわばり、背筋が凍る。

 年齢が離れた姉と一緒に遊んだ記憶はないが、「姉もやりたいことがあっただろう。悔しかっただろう」と思いやる。「戦争は人生を狂わせる。生き残っても、何十年たっても心に残り、被害は回復しない。ウクライナの戦争も、何とか避けられなかったのだろうか」と話した。

【とだ・そうすけ】1937(昭和12)年生まれ。兵庫工業高校(神戸市兵庫区)を卒業し、明石市の建築用塗料メーカーに勤務。稲美難聴者の会(休会中)の会長も務めた。

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