あるのは石棺の「ふた」だけ。
約1400年前のものという。近くに石棺本体は見当たらない。
兵庫県の加古川市教育委員会は3月、この「ふた」を市の文化財に指定した。調べてみると、本体は約6キロも離れた場所にあった。
なぜ、ばらばらに置かれているのか。
江戸時代のお殿さまの「気まぐれ」、太平洋戦争、戦後の経済成長…。
「ふた」と本体は、数奇な運命で、現在の場所にたどり着いた。
■変わった形のベンチかと…
加古川市中心部から車で15分。4月中旬、その「ふた」がある同市平荘町池尻の平荘湖畔に出向いた。
湖面に山並みが映える。
澄んだ空気が気持ちいい。
外周路はランニングルートとして知られ、何人かのランナーを見かけた。
矢印付きの「弁財天神社」の看板に沿って歩く。すぐに鳥居とお社があった。
境内の片隅に、大きな岩が見えた。
変わった形のベンチのようにも見える。
近寄ると、家の屋根のような形をしていた。
これが、例の「ふた」だった。
「稚児窟石棺蓋」と呼ばれる。「ちごがいわやせっかんふた」と読む。
市教委によると、縦242センチ、横158センチ、高さ60センチ。6世紀末~7世紀初めごろに作られた。
表面は丁寧に仕上げられ、のみで削った跡はほとんど見当たらないという。6個の突起は、縄をかけるために作ったとみられる。
■古墳がダムに水没した
そもそも、どうして平荘湖畔に、この「ふた」があるのか。
その理由の一端は、平荘湖が「湖」といいながら、実は人工の「ダム」であることにある。
平荘湖は工業用水を供給するため、高度経済成長期の1966(昭和41)年に完成した。
稚児窟(ちごがいわや)と呼ばれていた古墳は、集落と共に、ダムに水没した。
この工事に伴い、集落の神社と一緒に、古墳にあった石棺の「ふた」も、湖畔に移されることになった。
市教委によると、この古墳は、古墳時代後期としては県内最大の方墳(四角形の古墳)だった。ヤマト政権王族の古墳の影響が見られるという。
政権ともつながるような、かなりの有力者がまつられていた可能性がある。
■大八車で運搬するが…
水没前の古墳にも、石棺は「ふた」しかなかった。
本体はどこにあるのか。
市教委に聞くと、同市志方町投松(ねじまつ)の投松公民館にあるという。
平荘湖畔からカーナビをセットすると、投松公民館まで6キロ。10分かかると表示された。
投松公民館に着くと、本体は玄関前に鎮座していた。
縦228センチ、横142センチ、高さ95センチ。堂々たる印象を受ける。「ふた」をかぶせると、ぴたりと一致する大きさという。
なぜ石棺が、ばらばらに置かれているのか。
その答えは、16(大正5)年発行の「増訂 印南郡誌」にあった。
要約するとこうなる。
江戸時代中期のこと。姫路藩主が、タカ狩りにこの古墳近くを訪れた。
その際、石棺の本体部分を見て、「よい泉水(庭石)になる」と思い、運ばせようとした。
「ふた」はそのまま残し、多くの人が本体を大八車に載せて運んだ。
しかし投松峠の辺りで、あまりの重さに動かなくなった。
そこで、やむなく捨ててしまった-。
市教委によると、この本体の重さは2トン以上あるという。
藩主の意向が絶対だった時代。その命令に応えられず、途中で運搬を諦めるのが、よほどの決断だったのは想像に難くない。
それだけ重かったのだろう。
印南郡誌には、こんな内容の記述もある。
「多くの人の力を費やしたがほとんど無駄になった」
「愚かな行為は国史資料を失っただけでなく、古墳に拭えないほどの恥辱を与えた」(いずれも現代文に意訳)
手厳しく当時の姫路藩主の行いを批判している。
■戦禍、村人総出で動かした。その利用方法は…
石棺の本体は長らく、草や土にうずもれていた。その存在さえ知られていなかった。
36(昭和11)年ごろ、道路を広げる工事の際に発見されたという。
同市志方町投松で生まれ育った池本英雄さん(89)によると、地元のため池近くの広場に置かれていた。
太平洋戦争末期のこと。志方町にも米軍機が飛来するようになった。
石棺の本体は、空襲に遭った際の防火用水に使うため、移動させたという。
池本さんは「石棺に太いロープをかけ、下に松の木のころ(棒)を敷いて、大人も子どもも、村人が総出で動かしたんです」と振り返る。
「みんなで後ろから押して、前からロープで引っ張って。私も子どもだったけれど、一緒に引っ張りました」
それから、現在の投松公民館前に置かれているという。
■なぜ「ふた」だけ文化財に?
なぜ市教委は、石棺の本体とセットではなく、「ふた」だけ文化財に指定したのか。市教委文化財調査研究センターに聞いた。
同センターの宮本佳典副所長は「文化財審議委員会では、将来はふたと身(本体)が一緒に保存されればいいという意見もあった」と明かす。
「ふた」は地元の池尻町内会から文化財指定の申請はあったが、本体の方は申請がないという。
その上で「ふた」について、「播磨の古代史を知る上で、また当時の高度な石工技術を知る上で、学術的価値が高い」とする。
池本さんはこう話した。
「姫路藩主が石棺を持って帰ろうとした話は、おじいちゃんから聞きました。子どもの頃は石を投げ入れて遊んだ思い出もあり、愛着があります。さまざまな物語のある石棺を、今後も残していってほしいですね」
太古の石棺の「ふた」と本体が、離れた場所にあることから、それにまつわるストーリーが生まれた。
その物語も含め、後世に残すべき地域資源だと感じた。(斉藤正志)

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