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明石海峡大橋特集

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淡路ジェノバライン社長 吉村静穂さん
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淡路ジェノバライン社長 吉村静穂さん
岩屋-明石航路は今なお通勤・通学の重要な足=岩屋港
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岩屋-明石航路は今なお通勤・通学の重要な足=岩屋港

 現在の淡路島の旅客船事業を語る上で、はずせない人物がいる。岩屋-明石航路で旅客船を走らせる淡路ジェノバライン社長、吉村静穂氏(81)だ。明石海峡大橋の開通に伴い旅客船、フェリーの撤退が相次いだとき、地元の求めに応じて受け皿会社を設立。島民の足を守った。この吉村氏は大阪市にある下着・宝飾販売会社の創業社長で、旅客船事業とは元来無縁。淡路には魚釣りに来ていただけだったが、今や船こそ自らの本業と言い切り、航路を瀬戸内の島々へと広げる夢を描く。

 1998年4月5日、明石海峡大橋が開通。当時10事業者が11航路で旅客船、フェリーを運航していたが、次々に姿を消す。吉村氏はそのうち、富島-明石航路を2002年に、岩屋-明石航路を07年にそれぞれ引き受ける。

 「00年の秋だったか。富島で釣りをしていると、当時北淡町の企画振興課長だった宮本肇・現淡路関空ライン副社長がやってきた。『富島-明石の航路を西淡路ラインから引き継いでもらえないか。富島から明石、神戸の高校に通う高校生の足がなくなってしまう』と言う。初めて会っていきなり聞かされた話だったが、それはいかん、よし助けよう、と。すぐに決断した」

 「私は大阪市で下着・宝飾販売業を営んでおり、大阪に住んでいたが、淡路を非常に気に入っていた。特に、西浦を。未開発で素朴な景色が実に良い。ここでの釣りが好きで、しょっちゅう来ていた。淡路のためになることなら、やってみようと思った。それが、旅客船事業に関わることになったきっかけだ」

 2008年、富島航路からは撤退するが、岩屋航路は今も運航を続ける。17年には兄弟会社「淡路関空ライン」を設立し、洲本-関西空港航路の運航にも乗り出した。

 「富島航路ももちろん守りたかったが、どうしても採算がとれなかった。岩屋航路も利用者数はやはり減り続けていたが16年、増加に転じた。サイクリストを含め、観光客の利用が増えたようだ。あれは大橋をくぐって本州側、淡路側の両方の景色を眺められる素晴らしい航路だ。もっと多くの方に知ってほしい」

 「関空航路の開設は、関空に降り立つ訪日外国人観光客が増えている今、チャンスと踏んだからだ。開設からちょうど半年。残念ながら周知がまだ進まず、利用者数は低迷しているが、港を降りた後の2次交通の整備などでもり立ててほしい。この航路が軌道に乗れば、島内のほかの港へも航路開設の道が開ける」

 対岸では、兵庫県が明石港、姫路港の再整備計画を打ち出した。クルーズ船や定期旅客船の誘致を進め、地域活性化につなげる狙いだ。旅客船事業も、活性化に向けた環境が整いつつある。

 「日本の代表的な観光地の一つ、沖縄では石垣島が竹富島や西表島など周辺の離島に向けた旅客船の発着地としてにぎわっている。瀬戸内海でもああいうことをしたい。関空や明石から淡路に観光客を呼び込み、淡路をぐるりと回って小豆島や直島、しまなみ海道、とびしま海道へ船を出す」

 「私はちょうど30年前、自分が興した会社の社名を『ジェノバ』とした。海が好きだったからだ。大航海時代を切り開いたコロンブスが生まれた港町の名前だ。私が旅客船事業に関わったのはまったくの偶然だったが、夢を託すにふさわしい、良い名前を付けたなと思う。私は淡路を瀬戸内観光の玄関口にしたい」(西井由比子)

▽よしむら・ひでほ 熊本県出身。下着・宝飾販売の「ジェノバ」設立を経て2002年に旅客船運航の「淡路ジェノバライン」を設立。05年、淡路市野島蟇浦に温泉旅館「海若の宿」を開設した。03年、淡路市へ移住した。

2018/1/5
 

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