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中野卓郎さんが手帳に記した神戸空襲の日付
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中野卓郎さんが手帳に記した神戸空襲の日付
兵庫師範学校予科生時代の中野卓郎さん
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兵庫師範学校予科生時代の中野卓郎さん

 国内外に苛烈な被害を与えた太平洋戦争(または十五年戦争)の終戦から、15日で77年となりました。戦没者、空襲犠牲者に思いをはせ、戦争の愚かさに向き合うこの日、東灘区関連の戦争経験者の思いを聞いた過去の記事を紹介します。 

73年前の神戸空襲、道ばたに犠牲者 遺体集めた学生 感触今も 篠山の中野さん「あまりにむごい」(2018年3月18日掲載)

 太平洋戦争末期の1945年3月17日、神戸市内で米軍による無差別爆撃があった。以降、空襲は激化し、神戸の犠牲者は8千人超とされる。焦土で警官に指示されるまま焼け焦げた遺体をかき集めた学生らがいる。兵庫師範学校(現在の神戸市東灘区)に在籍した中野卓郎さん(90)=篠山市日置=もその一人だ。「かわいそうという言葉では語り尽くせない…」。神戸空襲から73年、卒寿を迎えてなお脳裏からあの日の記憶が離れない。(上田勇紀)

 「3月17日 5月11日 6月5日(上記以前何回も)」。5年前に妻に先立たれ古里で1人暮らす中野さんが開いた手帳には、神戸空襲の日付が記されていた。

 43年、現在の阪神御影駅近くにあった兵庫師範学校予科に入った。教師を夢見て学業に打ち込むはずが、戦況悪化に伴い軍事教練が増えた。重い三八式歩兵銃をかついで西宮まで往復したり、実弾射撃の演習をさせられたりした。

 神戸で空襲が本格化した45年。「空襲だらけで何月やったかはっきりせん」と前置きし、「遺体集め」に従事した日のことを語り始めた。

 ある日、学校の寮にラッパの音が鳴り響き、学生が庭に集められた。警官から、物を引っ掛ける「かぎ」が先端に付いた棒を渡され、西へ歩かされた。

 灘区と思われる周辺には屋根の残った家が見当たらない。歩道には焼け焦げた遺体があちこちに横たわっていた。学生たちが棒を動かす。「10体ぐらいを1カ所に集めては、また次の場所で集める。そんな作業の繰り返しやった」

 幼子を抱きしめたまま黒焦げになった女性、脚や首のない焼死体もあった。誰も言葉を発しない中、作業は続く。遺体はトラックに乗せて運ばれた。寮に戻ると、夕食におかゆが配膳された。「誰も手をつけん。喉を通らんかった」。みんなただじっと座っていた。

 45年6月5日の空襲で予科校舎と寮は焼失。中野さんは相生にあった造船所に移り、終戦を迎えた。

 戦後、本科を卒業して篠山に帰り、小中学校で約40年間教えた。だが、この体験を子どもたちに話したことはない。

 「語り継いでいかなあかんけど、あまりにもむごいことやから」

 73年前の記憶は少しずつ薄れていくが、遺体を集めた感触が消えることはない。

→「東灘区のページ」(https://www.kobe-np.co.jp/news/higashinada/)

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