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災間を生きる 震災人脈

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地震学者の寺島敦さんは「神戸が断層の巣なのは研究者にとって当たり前だったが、『いつ起こるのか』とははっきりと言えなかった」と悔やんだ=神戸市須磨区 神戸新聞NEXT
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地震学者の寺島敦さんは「神戸が断層の巣なのは研究者にとって当たり前だったが、『いつ起こるのか』とははっきりと言えなかった」と悔やんだ=神戸市須磨区

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 「株式会社神戸市」。その都市経営の手法から、かつての神戸市はこうもてはやされた。

 1966年、人工島・ポートアイランド着工。港湾機能の強化と新たな都市空間の創造を目指し、海の開拓に乗り出した神戸市の戦略は、高度成長の波に乗って大当たりする。六甲山を切り崩した土砂で埋め立て地を造成する土地開発は「山、海へ行く」のキャッチコピーで耳目を集める。70年代には神戸港のコンテナ取扱個数が世界2位に。81年の「神戸ポートアイランド博覧会」(通称・ポートピア’81)には、1600万以上もの人が足を運んだ。神戸市は都市開発行政の先駆者として脚光を浴びる存在だった。

 「先生、神戸は洪水なんですよ。洪水の対策が『主』で、地震は『副』ですから」

 85年に始まった神戸市防災会議の地震対策部会。専門委員の地震学者に対して神戸市職員が発した言葉が、時代の空気を映していた。関西では地震は起きないという「迷信」。その虚を突くように、阪神・淡路大震災の揺れが襲った。

 だが、足元で息を潜めるリスクへの警告は確かに存在した。神戸が隆盛を謳歌(おうか)した時代、二つの警告がひっそりと世に出されていた。

 「神戸と地震」は、活断層という言葉が初めて記された行政の報告書となった。「六甲山地の断層の多くは活断層と考えられている」

 神戸市が、大阪市立大名誉教授の故・藤田和夫ら大阪市立大と京都大の専門家グループに委託。ボーリングなどで神戸周辺の断層を調査し、74年に調査報告書としてまとめた。

 神戸を象徴する六甲山。931メートルの標高は隆起の繰り返しでできた。1回3メートル、900~2800年ごとに約100万年で数百回とされる。地表に現れた数多くの活断層から、神戸・阪神間の地形が地震による隆起で形成されたのは明らかだった。

 「将来都市直下型の大地震が発生する可能性はあり(中略)壊滅的な被害を受けることは間違いない」。結論には思い切った言葉が並んだ。

 もう一つの警告は、兵庫県が地震学者で神戸大教授だった故・三東哲夫に依頼し、79年にまとめられた「兵庫県下震災対策調査報告書」だった。神戸・阪神間では過去400年に震度5以上と推定される地震が8回起きたとの事実を告げていた。最後の発生は1916年。「50年に1回の割合で地震が起きている。統計的には不幸な出来事が明日発生しても異常ではない」と指摘した。

 警鐘は都市開発にも及ぶ。丘陵地の宅地造成や海岸の埋め立てなどで軟弱化した地盤が「地震災害を加速度的に大きくしつつある」と訴え、近代都市の実態と地震災害の脅威を市民に伝える必要性を説いた。

 6年後。防災学者の室崎益輝(よしてる)(75)らの働き掛けで神戸市に地震対策部会が設置される。それまでの地域防災計画になかった地震対策を初めて検討する。その場で、市職員は地震対策を「副」と言い切った。

 「少なくとも震度6の想定がいる。兵庫県(の防災計画)でも6だ」

 専門委員だった地震学者で神戸大名誉教授の寺島敦(つとむ)(88)は語気を強めた。対する市職員はこう返す。

 「(有史以来)過去1400年、神戸で震度6の地震は起きていない」

 神戸市にとって、災害対策とは水害対策だった。「洪水対策が『主』」との発言が、700人以上亡くなった38年の阪神大水害を念頭に置いていたことは明白だった。

 「形式的に地震対策計画を作ればいいということか」。寺島は市職員の言葉に歯がみする。市から地震対策への本気度は感じられなかった。

 「神戸と地震」の調査に携わった前京都大総長で京都造形芸術大学長の尾池和夫(79)は「行政が警告を真剣に受け止めていれば、被害は抑えられたのではないか」とする。

 地震対策部会が86年にまとめた「市地域防災計画・地震対策編」は、想定震度を「5の強」とした。阪神・淡路大震災の震度は7だった。

 「専門家の警告を無視した行政が大被害を招いた」。市民や学識者らが神戸市の開発行政を非難した「神戸黒書」で、元大阪工業大助教授の中田作成=2016年死去=は「震災は人災だ」との批判を展開する。その憤りはその後、神戸空港建設の反対運動につながっていく。

 「行政は都合の悪いことは隠し、うそをつくと学んだ」。執筆者の一人だった「『公的援助法』実現ネットワーク被災者支援センター」副代表の北田美智子(71)も「人の命よりも経済開発を優先したそしりは免れない」。その思いは今も消えない。

 想定震度を「5の強」に設定してから阪神・淡路まで9年間。室崎は「市が実際の対策を進めた様子はほとんどなかった」と振り返る。それどころか、地震対策部会は一度も開かれることなく、いつの間にか解散されていたという。

 市消防局警防課長として部会メンバーだった西田和馬(84)は、完成した対策編が役所内で説明される機会はなかったと記憶する。「誰も存在に気付かず、資料置き場にぽっと置いてあった」。大地震なんて起きるはずがない。そんな思いが透けていた。

 なぜ警告は生かされなかったのか。寺島は「『いつ地震が起こるのか』と問われると答えられない。発生を具体的に予知できないのは地震学者の一番弱いところ」。漠然とした予測では行政は動かせず、危機感を共有できなかったと述懐する。

 ただ、地震学者の訴えが社会に衝撃を与え、国を動かした事例はある。神戸大名誉教授の石橋克彦(75)が、東京大助手だった76年に公表した東海地震の「駿河湾地震説」だ。

 「大地震がすぐに起きても不思議でないという危機感があった。だから世の中を動かそうとはっきりと考えていた」。東海地震は従来、静岡県西部の遠州灘で起きると考えられていたが、石橋は県東部の駿河湾まで震源域が入り込むと主張。2年後、駿河湾周辺の観測網や防災対策などを強化する「大規模地震対策特別措置法(大震法)」が制定された。

 阪神・淡路以前でも警告が生かされる可能性はあった、と石橋は指摘する。「『地震は全国どこでも起こりうる』という大前提が世の中に広く共有されていれば、地震学者の警告が神戸で受け入れられたかもしれない」=敬称略=

(金 旻革、竹本拓也)

2019/10/12

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