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災間を生きる 震災人脈

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「ピースボート」の拠点で翌日の救援活動の方針を話し合うボランティアたち=1995年2月17日夜、神戸市長田区御蔵通5
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「ピースボート」の拠点で翌日の救援活動の方針を話し合うボランティアたち=1995年2月17日夜、神戸市長田区御蔵通5

「ピースボート」の拠点で翌日の救援活動の方針を話し合うボランティアたち=1995年2月17日夜、神戸市長田区御蔵通5

「ピースボート」の拠点で翌日の救援活動の方針を話し合うボランティアたち=1995年2月17日夜、神戸市長田区御蔵通5

 「史上最大のボランティアを」

 どうしても呼び掛けなければならなかった。1995年1月19日未明、大阪の民放放送局。生放送番組で、司会者の質問を遮って話しだした兵庫県立大大学院減災復興政策研究科長の室崎益輝(よしてる)(75)。被災地の惨状を目の当たりにし、全国から支援の必要性を切々と訴えた。

 どれだけの人が室崎の言葉を耳にしたのかは定かでないが、阪神・淡路大震災後2カ月間で約100万人、1年間で延べ137万7千人ものボランティアが被災地に駆け付けた。

 同年7月、国の防災基本計画にボランティアが初めて明記され、被災地支援の要に位置付けられた。災害時にボランティアが駆け付けることも、その活動を継続していく団体が生まれることも当たり前になった。95年は「ボランティア元年」と呼ばれるようになった。

 「みな自由に動いていた」。被災地NGO恊働センター(神戸市兵庫区)顧問の村井雅清(69)は同区の保育園を拠点に「ちびくろ救援ぐるうぷ」を立ち上げ、テント生活の被災者に食料を配布。仮設住宅で高齢者の見守りに心を砕いた。

 民間のボランティア団体は被災地に根を張り、支援活動を展開。被災者一人一人の要望に向き合った。社会福祉協議会が開設する災害ボランティアセンター(ボラセン)がまだ一般的ではなく、行政は大勢のボランティアに対応しきれなかった。

     ◇

 震災直後に「ボランティア大作戦」を呼び掛けた室崎は、現在のボランティアが行政の管理下に置かれ、指示通りの作業ばかりをこなす状況を嘆く。「震災で行政は何から何までお手上げだった。だからボランティアは自ら考え、行動した。その原点に立ち返ることが必要だ」

 2004年の新潟県中越地震を機にボラセンは運営体制が確立した。今年相次いだ豪雨や台風被災地でもボランティアの受け入れ窓口を担うが、恊働センタースタッフの増島智子(48)は「支援の形が進歩しているとは言えない」と指摘する。

 事例に挙げたのは、8月下旬の記録的豪雨に見舞われた佐賀県武雄市。9月のある日、同市社協のボラセンは、受付開始時刻を前に募集を締め切り、多くのボランティアがあぶれることに。彼らは民間が運営する「おもやいボランティアセンター」に回り、浸水被害の住宅で家財搬出などに汗を流した。

 募集を打ち切ったのは定員が30人に達したからだった。ただ、水害で被災家屋の片付けは1棟当たり10人のボランティアが必要とされる。同市の被災家屋は約1200棟。「おもやい-」の活動に参加した増島は「社協が災害対応に不慣れで、専従スタッフも不足していた。被災者のニーズを十分に調査できないまま、ボランティアの受け入れを制限していた」と話す。

 被災者が生活を再建できるよう、息の長い支援が求められる。だが、佐賀県では「もうボランティアは必要ない」との誤った認識も広まりつつある。

     ◇

 「言われてもしない、言われなくてもする」。24年前にボランティア団体の調整役を担った「阪神大震災地元NGO救援連絡会議」代表、草地賢一=2000年死去=の口癖だった。誰のためのボランティアか。行政の手伝いではない。被災者のためにほかならない。=敬称略=

2019/11/9

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